舞台作品をつくりたい理由

11月3日に『あしたのあたし』という舞台作品をワークインプログレスというかたちで発表したのですが、あまり説明のないまま発表したため、ちょっと今、自分が考えていることを整理することも含めて、まとめてみようと思います。

つくった、というよりもつくらざるを得なかったというのが近いのですが、何年も前からYuko Nexus6さんの生きざまを訊く機会があり、その話を舞台化したいと思っていました。前作として『あしたのきょうだい』という作品を作ったのですがこれも主演の張祐寿さんのこれまでの記憶から、物語を再構築する、というやりかたで同じ手法でつくられたものです。なぜ、そういうつくり方をしているのかというと自分の処女作の『サマースプリング』が自伝的作品だからでそこからの手法を流用しているというのもありますが、どうしても自分はまったくなにもないところから物語を1からつくることの嘘くささみたいなものに敏感であり、セリフや言葉がしっくりこないんです。なるべく、その人の背景からその人自身の身についた言葉や動きがあるはずで、その身体と声は必ず、ぴったりな言葉を持っているはずだという予感や願いにも似たものがあります。それは美しいものだと思うから。

この嘘くささを無臭化するためによくあるのが過度に動いたり、日常会話ではないような発話を導入するという方法もあるのですが、自分としてはそこにあまり魅力を感じていないのと(他人の作品を観る分には楽しめるんですが)自分がやる必要が感じられないという。わたしがいいな、と思う人は日常の動きがまずいい人。それを舞台にそのまま乗せたいという想いがけっこう強くあります。演出というかたちで作った舞台作品は大谷能生さんとやっている朗読のユニットで『ディジタル・ディスレクシア』とダンサーの川口隆夫さん、大橋可也さん、岩渕貞太さんを迎え武満徹の『Voice』と『Air』を吉田隆一さんとわたしで再解釈して演奏した作品があるのですが、けっきょくどれも、主人公が服を着たり脱いだりする動作を入れている。生活する上で繰り返し行っている、日常的な動作の中にその人の思考や癖が見えるのが好きなんです。動作にはその人の背景がすべて詰まっている。

『あしたのあたし』には三宅理沙さんと清水みさとさんというかなりばりばり活躍している舞台女優のふたりも配役しているのですが、全員が一人の「あたし」を演じるという過去のあたしと、どこかで死んでしまったあたしと、現在のあたしが交錯することでそれぞれが何%ずつかYukoさんを背負っていく、という状態がつくりたかった。オーバーダビングのように。他者が自分を演じていることを観る、ということはどういうことなのか。それを演じたあととまえでは何が違うのか。

物語は不幸であってはならない。すべての物語はハッピーエンドでなくてはならない。わたしにはそういう想いが強くある。どうせ現実はつらいものであることのほうが多く、また、生きづらさを抱えている者に対する救いのようなものがあってほしいから。ドキュメンタリーの要素はある分、観る者が最終的にこれはその人だけの固有のものと突き放されてしまわれたくない。そもそも、現実をそのまままる写しにし、トレースすることなんてできないのだから。細部に嘘を混ぜないことで、大きな嘘が一つだけ吐ける。

嫌なものや苦手なものから話したほうが伝わりやすいので書きますが、わたしは演劇が好きなのかというと娯楽として観たりもしているのでふつうに好きだと思います。けれども多くの舞台作品を観ても、「ここはいいけれど、ここは好きではない」というように手放しで良かったと思うことはほとんどない。はっきりいって、舞台作品以外も全部良かったと思うことは自分の作品と似ても似つかないタイプの作品でもない限り、良かったと思うことはないというか、多いというか、今まで良かったと思ったことってあったかなあ、と思うくらいです。いや、もちろん、良かった作品はたくさんあるんですが、美術がちょっととか、役者がちょっと、とか、そういうふうに「ちょっとなあ」という疑問が浮かぶ中、だいたい、気に入らないのが音の使い方なんです。まず、劇場の音がだいたい悪いっていうのもあるんですけど。

舞台作品というのは本来ならライブに近いと思っていて、もっと、音や気配、動くことで鳴ってしまう音、声、言葉についてなぜ、みんなそんなに無神経なんだろうと思うので、あまり、気にしないようにすることが多いです。自分はインスタレーションと即興演奏の所為を舞台化したいし、それを目指しています。そのためには強烈な物語が必要だということもわかっている。ブログを書きはじめ、『サマースプリング』を発表したときも、批評を書くようになったときも音楽の関係者にはひどく評判が悪かったんですが(笑)なんで、そんなことやってるんですか? 即興演奏だけやってりゃいいじゃないですか。と言われ、どうしてもイメージを言語化していくという行為を下に見てくるのでわりとムカついたりしてました。なぜ、言語化する必要があるのか? それは忘れるためです。識るためです。理解するためです。人に伝えるためです。でも、結局は音楽でやったほうがはるかに早くもある。その速度という点であとからしか存在できない文章を書くという仕事はなんなのか。武満徹も前衛と批評やってるじゃん。吉増剛造さんだってやってるじゃん。わたしの好きな人は両方やってるので別におかしな話じゃないじゃんってことなんですけど。

要するにわたしは言語化できないことをやりたいし、そういうものをいっとう信じている。だから、言葉がどんどん追いかけてきて、それをすり抜けるようにイメージや音や光はあらかじめそこにあるべきだと思う。

音楽だけやることに限界を感じたころ、わたしはこのパフォーマンスを深化させていく未来しかないんだなあと気がつき、わたしは文章を書くようになっていった。即興演奏において、練習やリハーサルが重要なのではなく、その人の思考がいちばん、影響を与えるのだと思うからだ。

だから、文化的なものが好きだし、さまざまな人が作りし、作品をたくさん受容したいと思う。もし、自分が良いと思うものを他人がつくっているのだとしたら、自分はそれをつくらなくていいのだから。そんな楽なことはない。でも、自分がいいと思うものを誰もつくってくれないから、自分でつくるしかないのだ。

わたしの起点としては即興演奏というものがあって、他の演出家や演劇の人とは決定的に違うものがあると思う。音で舞台のなりたちをジャッジしているというのがまず、根本的にある。それと、照明。とにかく、舞台作品のほとんどの気に入らないポイントとして、照明や色の配置とか美術が気に入らないことが多いので、そのへんはかなりこだわっりたかったし、わかってくれる人がほしかった。逆に言えば音楽のライブでは照明や美術なんてこだわれないから、自分が見たい、聴きたい世界を作ろうとすると、どう考えても舞台作品でしかできない。

出演者を声で選んでいる、というのもある。声は嘘がこもる。感情のゆらぎはすべて声に映る。そして、動きや態度にその人の思考は映し出される。

今年は『あしたのあたし』の本公演と4月末くらいに短めの作品を一本、つくりたいと思っています。舞台作品でしかできないものが必ずあると信じているし、自分にしかできない、誰にもできないものがあるということがはっきりと、わかった。あとは自分のなかにあるものをどうアウトプットしていくのか。テクニックと経験が自分にはないが、自分なりのやりかたを確立していく試行錯誤の過程もまた、たのしいはずだ。たのしいと信じてやるしかあるまい。作品をつくることでしか救われないのだから。


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吉田アミ

「あしたのあたし」制作日誌

2018年11月3日(土・祝)に三鷹SCOOLにてワークインプログレスが行われた「あしたのあたし」の制作日誌です。本公演を目指して、書けることをつらつら書きます。
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