まとまらない感情のはなし

 ちょっとこのあいだ自分でもよくわからない感情に支配され、これまでにないような気持ちになり、そのことがなんなのかわからないまま人に投げ出すということをやらかしてしまい、ひじょうに迷惑をかけたなーという反省をわりと定期的にしてしまって、自分クソだな、嫌だなーと思ったりしていた。もともとその感情を既存のありがちな感情に置き換えて、納得しようと思ったのですが、どうにもそんな単純なものではないということだけがはっきりとして、また、そこに落とし込むことで、自分がつらいという気持ちが出てきた。

 インディゲームの伝道師でありながらなぜか、恋愛相談ばかりしているLayer Qさんが夜中のテンションで「自分が抱えている孤独や痛みを相手に押しつけて、自分の都合だけで生きるのはやめよう 相手のことを本当に大事に思うなら、大事に思うからこそ知っているその人にとって一番いいと思うことをしてあげよう それが自分の抱える孤独や痛みを増やすことだとしても」とツイートしていて、いいこと言うなァとか思ったりしていた。まあ、ほんとそれなんだけど、最後の「自分の痛みが増す」というところにかえって救いを感じる。今までに自分はけっこう、その痛みを受け入れることができない、いっぱいいっぱいになりすぎる傾向があったため、今年はそういうことのないように余裕をかまして生きていきたいと思う。 

 思えばわたしは10代、20代らいのときはほんとうに他人の気持ちをわかろうとせず、わかるつもりもなく、かなり偏った個人主義を貫いていた。考え方が大きく変わったのはやはり、文章や物語を書くようになり、しばらく遠のいていた演劇作品を観るようになってからだと思う。中学生の時は演劇の手伝いをしたりしていたし、演劇をよく観ていたのだが、そのうち演劇というものが映画やドラマの延長にあるものでしかないと思うようになり、いっきに興味を失った。実際、90年代の演劇シーンはそういうものが多かったと思う。そこから舞踏に興味を持ち、インプロヴィゼーションに傾倒していったという過程がある。もちろん、同時に音楽もかなり聴いていた。

 演劇的なもの、演技、何かを演じる、ということは嘘を吐くことだと思い、また、同じようなものばかりになっていることに違和感を持っていた。まあ、いまはそれはそれで面白いし、というくらいの距離感で観ることができるようになったし、お約束でできているものもそれはそれで面白いなァとは思っているし、わざわざ否定する気もないし、観なければいいだけだからなァとも思う。音楽は音を出すということにしばられているからその分、どうしても嘘を入れる隙間がない。

 即興演奏は一緒に音を出す相手の出自など考えず、その場にある音だけが真実なのが気が楽だった。00年代のOFF SITEでは海外のミュージシャンが毎日のようにやってきて、相手がどんな人なのかもわからないまま音を出すのが常であったし、別にそれでいいと思った。でも、段々とその即興演奏が形骸化し、ひとつのパターンに陥ってくると、急に興味を失せていった。自分の演奏も型ができてしまっているのがわかってきた。あとは誰と音を出すかくらいしか変化がない。それでも他のヴォイスパフォーマーのようにはならなかったし、全力で声を出すということだけが自分の方法だった。息が止まってもいいから全力で出す。どうしてそんな声がでるんですかと言われれば「死ぬ気でやればできます」と答えていたし、それが自分のやりかただった。クソみたいにてきとうに声や音をだしている人はすぐにわかるし、そういうものが嫌いだったし、何かの影響を感じるものを憎んでさえいた。今思えば今よりも圧倒的に心が狭かった。自分の心の狭さは、猫の額ほどと言っていたくらいだ。作品やライブを観て、帰りに激昂して、その場に一緒にいた人に当たったりしていた。その作品を作ったわけでもないのに「別にいいじゃん」みたいに言われて「あんなクソみたいなやつを肯定するのか」と怒り出す始末。なかなか、面倒くさい。いや、面倒くさかったと思う。

 今となっては別にどうでもいい。他人が何を作ろうが何をしようが、その中で一つでも良いと思える部分があればラッキーだくらいに思う。でも、若い頃はなぜ、あんなに怒っていたのだろうかと思い出す始末。それを言ったところでなんの意味もないのに。もちろん、意味のないことをするという意味があるので、それはそれで悪いことではないのだけれど。

 しばらくして、批評やレビューを書くようになってから考えがそうとう変わったと思う。書くことで、より作品のことがわかるようになったからだ。書き出しは否定的であっても、書いているうちにわかってくることは多い。書かなくてはわからないことも多い。表面的に見た程度では作者の考えの一部も理解したことにはならない。作者というのはその作品に一番、肉薄し、時間を費やしているわけで、それを受容する側とはいくら近付こうとしてもひとつ、大きな隔たりがある。昔のわたしはそんなものはないと思っていたが、ある、と思ったほうがいろいろと楽になることが多く、たいして、知らない人に通り魔みたいにひどい言葉を投げかけられ、嫌な気分になっても、わからないものはわからないと思って、諦めるほうがよっぽど精神衛生上マシであり、メンタルもやられないし、無駄な時間を費やさなくても済むとわかるようになったのは成熟といえるのではないか。

 わからない感情というものがこの年になっても自分のなかにまだまだある、ということがわたしには驚きだったし、これを作品に落とし込んでいく、ということができるのではないか。とも思った。また、自分はすべての物事が作品を作ることに直結していくタイプで、そうではない状態だとかなり、人生がきついということにも気づいた。今更。わりと今更感がある。そもそも、他人から依頼されることをずっとやっていたので、そんなことに気づかなかった。改めて、自分がやりたいことは何なのかを整理したときに残ったものがあった。そのためにはいろいろ合理的な思考と行動が必要で、目的に向かって計画していかなくてはいけない。即興演奏のライブならその日に行って、演奏すればいいだけだが、それだけではできないものに興味を持つようになったからだ。そのためには人の心もわからなければならない。わからないで済むのは怠慢でしかないし、表現として弱いと思う。

 わりとそんなことをここのところ考えていた。まず、感情があり、それはなんなのかを言葉によって整理していく。そこでできたロジックを作品に流用していく、というのが合理的かなーと思っている。感受性は年とともに尖らせていくものだが、それを他人にも要求しないこと。自分と同じように苦しませたりしないこと。同じ価値観でないと相手を認められない、信用できない、好きになれないというのはあまりにもつらすぎる。わからないままでも相手を愛することはできるのだから。




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