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世の中の迷いごとはだいたいお金で解決できる

 「入院することになった」「お金は貸せないよ!」と、即答で言われたのはいい思い出です。

 いい思い出なわけあるか。

 金で解決できると言うとひじょうに性格の悪い人に思われるかも知れないが、解決できないことのほうが実際には少ないと思う。だとすれば金を工面すればいいだけで、まあ、それはなんとかなるんじゃないのかとは思う。そこでいきなり命を獲られるわけでなし。なんともならない。生きるか死ぬかそれが問題だ。と、思いつめても、意外なかたちでどうにかなったりするものなのだ。でも、なんとかなるさ、と楽天的に物事をとらえられないと最悪が目に見える。経験者が言うのだから、すこしは説得力があるだろう。

 未来のことと、過去のことを考えるから人間は不幸であり、現在を生きることだけを考えれば幸とか不幸とかは感じずにすむ、というようなことを言ったのは誰だったか忘れてしまった。でもなんで、人は未来のこととか過去のこととかばかりにとらわれるのだろう。これからどうなるかわからないから不安だし、過去にこのようなひどい仕打ちにあったのだからまた同じことが起きるかもしれないし、終わったことを思い出してクヨクヨしていてもしょうがないとわかっていても、そのことが頭から離れず、リピートし続けてしまう。

 でも、もともとは自分はそういう性質じゃあ、なかったんだよなあ。とか、そういうことを思い出し続けている。それは今やってる作品とか原稿とかがぜんぶ、そこに帰結していくからでほんらいの自分とは何だったのかを思い出すような作業をずっとしているからだろう。

 なんであのときあの人にあんな言いかたしちゃったんだろうなあ。なんで、即答で「大丈夫、なんとかなるって」と言えなかったんだろう。なんてバカだったんだろう。言えなかったのは保身のためだ。余裕のなさからだ。不安がっているその人が安心することを、肯定するということを、言えなかった自分の技量のなさ。もう一回、時間を巻き戻してあのセリフを言い直したい。

 「死にたい」に対しては即座に「死ぬな。生きろ」と言えるし、「どうせいつか死ぬんだから無理に死ななくてもよくない?」という言い方を自分はするのだが、極端ではない話に応用できていない。そもそも、即答しすぎるのがよくない。わかっている。相手への反応が早すぎる。即興という病だ。わかっていた。現在性というのは即興性とおそらく同意語だ。だから即興と物語を混ぜたいのになんだかはにほに噛み合わない。わかったから、後悔したり反省したり、過ちを正す機会をうかがったり、次は間違えないようにとルート取りをするんだ。わかったか。わかったと思っても、また失敗しない自信はない。きっとなんども間違える。間違えないようにしようと思うと間違える。間違えることが悪いんじゃなくて、失敗したことで新しいルートが見える、ということがわかればいい。

 そう思うことがいっぱい生きているとある。こういう後悔はちゃんと書いておかないと忘れてしまうので、それぞれメモって即答できるように。誰かを、積極的に傷つけたいと思っていないのなら。誰かに、積極的に傷つけられたいと思っていないのなら。

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