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「宅通」を考える

※これは ツイのオタクV2 Advent Calendar 2018 の記事です


あむーるです。機運が高まったのでこちらにも文章を投げようと思いました。

本日(12/12)は筑波大学の推薦入試の合格発表日です。つまり今日をもって筑波大学に入学することが決まる方が大勢いらっしゃるということです。おめでたいですね。

今回私がお話しするのは,「家から通うかつくばに住むか」,つまり「宅通かひとり暮らしか」を考えるうえでの私個人の意見についてです。
また,以前(今年の1月)にも宅通についての文章を書いていたのを見つけたので,いちおうリンクを貼っておきます。
改めて読んでみると,このときからとくに意見が変わっていないなあという感じです。

はじめにおことわりしておきますが,私は現在も埼玉県某所からつくばまで1時間半ほどかけて電車通学しています。そして,私は宅通に関してそこまでネガティブな感情を抱いていません。このことを念頭に置いて,以下の文章を読んでいただければと思います。

語り尽くされたメリットとデメリット

「宅通かひとり暮らしか」を考えるうえでまず誰もが通る道は,それぞれのメリットとデメリットの検討でしょう。これについては以下の2つの記事で説明されています。

というわけで,私は次に,そうしたメリットとデメリットをもとに「宅通をするにあたって最低限必要なこと」について書くことにします。

大事なこと(≠覚悟)

強調しておきたいのは,宅通は恵まれた環境で自分の心構えをしっかりもたないとただ辛いものになってしまうということです。これは引用させていただいた2つの記事からもおわかりになるかと思います。

まず,「恵まれた環境」とは何か?
これは「家族との仲がいいこと」といいかえられます。家族と(とくに親と)よい関係が築けていれば,ささいなことで衝突して「宅通はカス!」となることはほとんどないでしょう。
たとえば,宅通はしばしば帰りが遅くなります。私の場合だと,大学で夜に用事があるときは日付の変わるぎりぎりか少し越えたあとに帰宅することがよくあります。こうしたときも,事前に「これくらい遅くなるからよろしく」と連絡をしたり,「この時間までには帰ってくるから」などと約束をすることで家族と信頼関係を築けるならば,帰宅時間についてのいざこざは避けられるでしょう。

次に,「自分の心構えをしっかりもつ」ことについてです。
これについては「周りに流されない」に尽きます。「自分の意思をもって宅通する」ことは絶対です。
ここでの「自分の意思」は,他人がなんと言おうと自分はこういう考えをもっているからおあいにくさま,という感じです(たまには頑固になるのもありだと思います)。意思がないのに宅通を続けることははたから見ていて「辛そう」です。これは「宅通かわいそう,やはり宅通はカス!」と思われてもしかたないと思います。

また,「周りに流されない」ことに関連して,「被害妄想にとらわれない」こともあげられます。
たとえば,つくばでの集まりについてです。確かに,宅通は(とくに電車通学の場合は)ひとり暮らししている人たちの集まりには最後まで参加できないことが多いです。入学当初はそれに対していいようのない疎外感をいだくことは当然だと思います。
そうだとしても,そこで「あんなに楽しい集まりに自分は最後まで参加できない,宅通はカス!」となるのは軽率な考えではないでしょうか。本当に理解のあるひとり暮らしの方ならば,その旨を伝えれば宅通の時間の制約をもとに集まりを企画してくれるはずです。そして,集まりの参加度に関係なく親しくなってくれるのではないでしょうか。
このように,自分を憐れむのではなく,他人にちゃんと自分の状況を理解してもらうために動くことは非常に重要だと思います。他人に働きかけずして自分の状況がよくなることはほとんどないといえます。

ここまで書いていて思いましたが,めちゃくちゃ説教臭いですね。
しかし,これが私の考えていることなのでどうかそこは理解していただきたいです。
さて,ここからは少し感情的な意見になるかもしれません。具体的にいうと,「宅通はカス!」という説が筑波大学のなかで一般的になることについて私が懸念していることを書いていきます。

宅通はかわいそう?

私が懸念していることとして,学類新歓やサークル新歓などで,宅通する新入生がひとり暮らしをしている上級生に「宅通は大変/辛い/かわいそう,だからひとり暮らしの方がいいよ!」などと(あちらに悪意がなくても)言われてしまうことがあげられます。というか私は実際に言われました。
私がこれを言われたのは学類新歓のときですが,そのときにはさすがにちょっと引いてしまいました。「宅通?大変だね~」だけならまだしも,「ひとり暮らししなよ!楽しいよ!遊べるよ!」というようなことを言われたのです。それに加えて「定期代もったいなくない?」とか。
うるせーよ!

家からつくばまで1時間以上かかり,宅通かひとり暮らしか微妙なラインにいるけれど宅通を選んだということは,つまりは自分でそれなりに折り合いをつけて宅通することを選んだということになります。
しかし,入学前後の慣れない環境で「宅通!?」という反応を返されるのはなかなかきついものがあると思います。あちらに悪気はないのかもしれませんが,そうした悪意のない発言ほど危ないものはありません。
「ひとり暮らし」という(筑波大学のなかでの)マジョリティに属しているからといって,なんでもいっていいというものではないと思います。

また,「ひとり暮らししなよ!」という言葉には,それを可能にしている背景を自覚していないのではないかと思わせるものがあります。
ひとり暮らしという環境は,ほとんどが何らかの形で家族の金銭面での補助をもとに成り立っていると私は考えています。つまり,ひとり暮らし「させてもらっている」わけです。
そういう状況にありながら,ひとり暮らししていない人に向かって「ひとり暮らししなよ!」というのはさすがに無責任ではないのか?と私は思います。

とりあえず,宅通の人は必ずしも一方的に「かわいそう」と思われるほどの状況にはいません。そうした一種の価値観の押しつけは,在学生に向けるならまだしも新入生に向けてやっていいものでは決してないでしょう。

バイアスがかかることの重大さ

なぜここまで私が否定的な見方をするかというと,新入生から見た在学生の発言(ネット上,リアルを問わず)には「経験者は語る」というバイアスが強くかかると思うからです。もともと人数の少ない宅通に関してはなおさらです。
加えて,これは人間関係においてもよくいわれることですが,「欠点ほど目につきやすい」ことも理由にあげられます。宅通の場合は,欠点の主張が目につきやすいことと欠点の主張をする人数が多いことで,悪い流れがなかなか断ち切れないという感覚があります。

そして,宅通にとくに不満をいだいていない方は,改めて「宅通はいいぞ」と主張する必要性を感じていないように思えます。なぜなら,そうした主張をしたところで,多数の「宅通はカス!」の意見に埋もれてしまうからです。さらに,そうした意見にはしばしば宅通の自虐的な意見まで入り込みます。
こうして「宅通はカス!」説が宅通しているか否かに関係なく賛同されることで,一見すると非常に説得力のあるものに見えてきてしまいます。これはとても危ないことです。多数の共感を獲得している考えならそれは自分にもあてはまるだろう,そんな考えをもってしまう方が新入生に多く現れてしまうのは悲しいことだと私は思います。
「人は人,自分は自分」というスタンスは,宅通にかぎらず様々な場面においてあてはまるものです。宅通している人にとって,「宅通」はそれの最も身近な例となるでしょう。

おわりに

この記事をとおして私が終始主張してきたことは,「自分の意思をしっかりもとう」ということです。「宅通かひとり暮らしか」問題は,結局のところ最後にここに行き着くと私は思います。
先ほども書きましたが,宅通が(筑波大学のなかでの)マイノリティである以上,単純な「宅通はいいぞ」という意見は耳を傾けるべきものにはなりえません。宅通肯定派の意見が意見として浮かび上がってくるには,それなりの意識がないと到底無理です。

そんな考えのもとで,私はこの記事を書きました。
この記事が宅通するかどうか悩んでいる新入生や,宅通を続けるかどうか悩んでいる在学生,宅通なんてカスだと考えている在学生に少しでも届けばいいなと思っています。




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