仲良くなくてもいい

明言しておきたいのは、私たちは「なかよくあるべきだという同調圧力」が苦手だということで、僕たち夫婦はニコニコ社交的であることにすぐ疲れてしまいがちだ。
「なかよし」「アットホーム」というのは良いものと見做されがちだが、かなりコミュニケーションコストが高いものだと考えている。なぜなら、そうした仲間意識は集団内の暗黙知とでもいうような、明文化されていないルールを「察するコスト」をメンバーに強いるからだ。

一見うまくいっているような組織でも、なぜだか新規メンバーが定着しないというような時、この「察するコスト」の不当な大きさが原因なのではないか。そんなことさえ思う。
気持ちのいい場所を作るためには、ルールをきちんと言語化する必要がある。

ルールとか、堅苦しいだろうか。
僕はそうは考えていない。
たとえば初期メンバーは自分たちが野球をするために集まったことを、言われなくたってわかっているとしよう。けれどもあとから参加する人たちは、サッカーをするつもりだったかもしれない、はたまたカラオケがしたかったかもしれない。このミスマッチはあまりにも不幸だ。そして新規参入者に開かれていないコミュニティは、いずれ窒息しそうになるほど窮屈なものに自閉していく。そういうのは嫌です。

なんでもやろうというのは一見自由なようでとても不自由だ。どれだけいい人たちが集まっても、野球もサッカーもカラオケもできないまま、てんでばらばらに右往左往することになってしまいかねない。
僕はノールールの「自由」のなかで右往左往したくない。自分たちの選んだゲームを、ルールに基づいて楽しくプレイしたい。野球がしたいならちゃんと「野球やろうぜ!」と声高らかに宣言し、野球のルールに基づいて、最高のゲームを作り上げていきたい。
暗黙知に基づく「なかよし」はいらない。明文化された枠組みの中でのびのび暮らす。
そういうのが理想なのだと思う。

各々が自律的なプレイヤーとしてルールに基づき貢献できる。そうやって一緒に遊ぶゲームを楽しいものにするために存分に力を発揮する、そういう場所を作りたい。

そのためには、メンバー各自が安心して一人になれて、安心して集まれる仕組みが必要そうだと考えている。お互い助け合って生きていけるような仕組みを作ろうと思うと、お互いがお互いのことを「察して」助け合うような「なかよしグループ」を作ってもうまくなさそうだった。

なぜって、僕自身が「一人の時間」によって、力を補充するタイプの人間だからだ。
元気な時は誰かの力になれる、元気をためるために気兼ねなく一人になれる。そういう環境が理想なのだ。