蝉時雨

蝉は何年も潜り、翅を広げる時を待つ。
たかが数日の為に、何年も待つ。
たかが数日と思うのは人間だけなのかもしれない。

人は蝉を見ると煩いと言う。
でも蝉にとって、人が煩いと感じると言う事が生きている証拠。
蝉は、自分の生を思う存分アピールしているだけなのに。

路上に落ちている蝉。
人は気味悪がり、車は轢き潰して進む。
彼らは死んでもなお、忌み嫌われる。

蝉は土に始まり土に終わる事を望む。
地に落ちた蝉の大半は、アスファルトで焼かれる。
土に帰れなかった彼らはどこに行くのだろう。

蝉を見ると、夏を感じる人がいる。
蝉を煩わしく思い、忌み嫌い、その生を否定するのにも関わらず、夏を感じる。
少し図々しい気がしないでもない。

蝉にとってその夏は、長い生の中で一瞬とも言える輝き。

蝉にとってその夏は、多くの危険を乗り越えた先の栄光。

蝉にとってその夏は

だから、少し煩くても許してあげようよ。
死んだ蝉を見ても嫌わないであげて、アスファルトの上だから土に帰れないだけなんだ。

また、朝になると蝉時雨が鳴り響き、彼らの生は最後の輝きを見せる。
まるで、夏はまだ終わってないぞと言わんばかりに鳴く。
そして、気づいた頃には彼らは使命を終え池に落ちていく。

私たちより、余程迷わなく、純粋で一貫性があると思わないか。

日中、ふとそんなことを思ったので、雑記に記しておく。

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