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第33章 「学問」と「納得」

更新頻度が下がりまくって完全にダメダメモードなんですが、ちょっと言っておきたいことができたので久しぶりの更新です。

ちょっと調べものをしているときに「学問は納得を与えてくれる」みたいな言説があったんですよね。

「人は納得を得るために学問をするんだ」と。

その考え、ちょっと危いよって話をしようかなと思います。

1. 納得できる話は危ない

何から話せばいいか迷うんですが、とりあえず「納得できる話」は危険だと最初に釘を刺しときたいと思います。

「学問は納得を与えてくれる」というのは、全否定はしません。

確かに納得を与えてくれることは多々あって、そこが学問の楽しい点でもあるんです。

しかしですね、「学問」とりわけ「自然科学」は「納得できる話」とは似て非なるものなんですよ。

人間は「納得」したい生き物ですよね。

「納得」は安心を与えてくれます。

だから皆、「納得」を求めます。

「納得」って、何なんですかね?

「納得」って、実は自分の中にある感情ですよね。

ぶっちゃけ、事実かどうかなんて関係ないんですよ。

「納得」の逆は「不服」です。

「なんでやねん!」って感情ですよね。

これって疑問の種じゃないですか。

その逆の「納得」からは疑問は生まれにくいんですよ。

極論すれば思考停止の種です。

「納得できる話」を聞いて、「へえ、そうなんだ~!」ってなったら満足するじゃないですか。

だから、めっちゃ危ないんですよ。

人を「納得」させることを「説得」っていうじゃないですか。

「説得」するのに一番大事なことって、何だと思いますか?

「事実を述べること」だと思ったあなたは、ネゴシエーターに向いてません。

「相手の気持ちに寄り添うこと」なんですよ。

相手の感情を納得させたら成功なんです。

「事実」で人を納得させられるなら、詐欺師なんて商売は成り立ちませんよ。

2. 科学の目的は「納得」ではない

私の専門は学問の中でも自然科学の方なので、自然科学の話をさせてもらいますが、まず科学の目的は「納得」とは全然違うところにあります。

科学の目的は「予測できるようになること」です。

人が「なるほど」と思うかどうかはどうでもいいんですよね。

自然の法則は人間の感情なんて無視して厳然たる事実だけを提供してくれます。

自然の法則、あなたは本当に納得いってますか?

私は納得なんていってないですよ。

なんでかわからんけど事実として受け入れざるを得ないから、そういうものとして受け入れてるだけです。

なんで重力があるん?

なんで電気のプラスとマイナスがあるん?

なんでマイナスとマイナスかけたらプラスなん?

なんでゼロに何かけてもゼロなん?

突き詰めていったら、結局は「そういうもん」なんですよ。

全然納得いかないでしょ?

そういう事実、必ず再現する現象を積み重ねて、色々なことを予測できるようにするのが科学なんですよ。

ご納得いただけましたか?

3. 科学と宗教

さて、蛇足として最後に科学と宗教について私が思っていることを述べて終わりにしますね。

科学と宗教はしばしば対比されることがありますよね。

実はこの2つにはある共通点があって、実はどちらも「信じる」というプロセスがあるんです。

いや、なんでやねんと。

お前、科学は事実の積み重ねって言うてたやんけ!「信じる」ってなんやねん!

と、思われるかもしれませんが、科学はその性質上、どうしても信じるしかない部分があるんですよ。

科学的な事実を全部自分で確かめた人がいると思います?

いるわけないよね。無理やもん。

原子の存在とか、宇宙とか、そんなもん全部自分で確認できるわけなくて、そこはもう先人たちが発見した知識を信じる(学習する)しかないし、そうやって学問は発展してきたんです。

そこは、自分で確認できる範囲の事実と、あとは自分が「納得」できるかどうかなんです。

だから、科学者でも自分の専門外のことになると急にとんでもない方向に思考が暴走する人がいるんですよね。

「納得」の呪縛ですよ。

宗教も、世の中に存在する不条理にある意味の「納得」を得るために「信じる」じゃないですか。

だって納得できなかったらしんどいし。

科学を信じない人とか、陰謀論を信じちゃう人とか、気持ちはわからんでもないんですよね。

自分の想像に合致したフェイクニュースなんて、うっかり信じちゃうじゃないですか。

だから納得できる話は危ない。

以上です。

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