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抹消されたつまらなさ【第一部】なぜ赤影は参上するのか?、つまらなさを賭けること

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 本論考のまず第一部では相席食堂2019年6月4日放送のかつみ♥さゆりのかつみによる一人ロケにおいてかつみが約二十分観のロケ映像の中で、なぜ「おもしろい」「おもろいな」「おもしろいな」を繰り返し(十七回)たのかについて分析することによって、かつみのお笑い論を再検討し、それによって第二部でテレビにおける笑いの演出性とフィクションにおける笑いの根源的不可能性を検討する。かつみの理論から導き出されるお笑い観によって明かされるのは笑い一般を駆動させる一要素としての「つまらなさ」の強度である。「なぜつまらない芸人は面白いのか、売れるのか」、これらの問題は本論考によって明かされることになるだろう。

1-1 見つけてしまったサングラスとしてのソロかつみ

 

 相席食堂において、大阪市北加賀屋でロケを行った関西屈指のロケ芸人かつみはアートに力を入れているという北加賀屋で、様々なアーティストやアートと出会い、ひたすら「おもしろい」とコメントする。その数は十七回である。また、このたぐいのコメントの反復は「おもしろい」だけではなく、その他の例としてアーティストBAJIKOの家での「おしゃれやな」三連続や、目玉を用いたアーティストコタケマンの家での「目玉や」十四回連続発言などが挙げられる。また、千鳥が「歯医者の角度」と名付けたオーバーリアクションな笑いが四回登場する。

三十分(千鳥のコメントしている間も引いたらもっと短い)の間でこのようなコメントをするのは普通のタレントであれば異常である。実際大吾には「へーとおもろいな何回言うんやろ」と言われ、ノブにはかつみが「おもろいな」ということで「おもしろいことにしようとした」と指摘されている。実際、かつみがロケ中にボケたのは後述する二回のみであり、その他は上記のようなコメントの反復だけであり、これが「つまらない」と指摘されてもあながち間違いではないだろう。

 だが、なぜ関西屈指のロケ芸人といわれるかつみ♥さゆりのかつみが、このような「つまらない」ロケをしたのだろうか。問題はなぜかつみがこのようなロケを行ったのか、あるいは行ってしまったのかである。そのために、重要になってくるのはかつみという人物とかつみ♥さゆりの芸風である。

 相席食堂のロケ映像について、かつみがロケ中にスタッフに演出指示をしているところが何度も映されている。それは基本的にはカメラワークや画面の抜け方の指示なのであるが、特筆すべきはロケ中盤のオープニング取り直しとロケ終盤にアーティストたちを集めてかつみが監督した映画という名の寸劇である。これらからわかるのは、かつみが芸人であるとともに演出家的志向をもっており、頻繁にロケにメタ的に介入するということである。ロケ終盤の映画は、まさにかつみの演出家的志向の最終形態と言えるだろう。

 また、もう一つ考えなければならないのは、かつみ♥さゆりの芸風の問題である。かつみ♥さゆりの芸の基本的なスタイルはかつみがボケてさゆりが笑う、あるいはさゆりの「ボヨヨーン」というボケにかつみが「やった」と言うというようなお互いにリアクションするものである。当然、コンビである以上、お互いにリアクションをして展開していくのは当然であるように思われるかもしれない。実際、ボケとツッコミというのはそのようなシステムだ。しかし、かつみ♥さゆりの特異な点はかつみはさゆりをツッコむのに対して、さゆりはかつみをツッコまず、さゆりはかつみのボケに対して何をするのかといえばただ笑うだけだということである。つまり、かつみがボケればそれが面白かろうが面白くなかろうが、さゆりは笑う。そういう芸風なのだ。これは、林家ペーパーのパー子システムとして一般には知られているだろう。つまり、かつみにしろ林家ペーにしろ、どんなにつまらないボケでも、キメを作ることで、あるいは相方に「笑え」という命令を与えることで笑いを演出する。つまり、ここで言うボケはツッコまれるためのものでも、それ自身で面白いものでもなく、笑いを演出する始発点でしかないのだ。

 このように考えると、かつみがなぜアートやアーティストなどを見て「おもろいな」、目玉を見て「目玉や」とコメントしてしまうのかが明らかになってくる。つまり、かつみにとって「おもろいな」と言われるものは「面白いもの」ではなく「面白いと言え!笑え!」というような命令的なものでしかないのだ。本来かつみはこの命令をさゆりに出すわけだが、一人ロケの場合、自らが命令を出したところで笑いや面白さを演出してくれるパートナーはいない。そうなった場合、かつみはさゆり的な役割を担う必要が出てくるわけだ。しかし、本来命令を下す側であるかつみにはあらゆるボケが命令にしか見えない。「面白いと言え!笑え!」と自らに語りかけてくるものに、かつみは従順に、しかし同時にそれらの命令を暴くような形で応答してしまう。これはまさにジョン・カーペンター『ゼイリブ』(1989)において偶然見つけたサングラスによって街にあふれる広告の真の命令を見てしまう主人公に近い。

 かつみはお笑いにおいてゼイリブ的なサングラスを身につけてしまった芸人なのである。このように考えると、こじつけではあるが、かつみが相席食堂ロケ中に唯一下した命令=ボケである「赤影参上!」は象徴的である。

これはメガネ屋でメガネをかけ続けるかつみがメガネをかけて外してを繰り返し十三回「おもしろいな」と言ったあとのセリフである。また、「赤影参上!」は二回連続で行われる。もちろんこれをメガネというだけで(そもそもゼイリブはサングラスであるし)、ゼイリブに繋げるのはこじつけである。しかし、この後相席食堂において「赤影参上!」がミーム化し、一つのキメとして、命令化したのは象徴的である。

これらはすべて、命令である。

1-2 つまらなさを賭ける


 だが、ここで止まってはいけない。かつみのお笑い論においてこの命令と演出の要素は始まりでしかない。かつみにおいて重要なのはあらゆるボケが命令であることであるよりも、むしろこの「笑え!」という命令としてのボケが「面白くない」つまり、笑えない場合があるということである。この「面白くない」ボケ=命令によって、このボケ=命令の脆弱さは明かされるわけであるが、しかしこの「面白くない」ボケ=命令は圧倒的つまらなさによって反転する場合があるのだ。つまり、つまらなさ過ぎて面白いという現象である。

 この現象について、かつみの理論を検証したい。その際、参照することになるのが相席食堂2020年7月7日から開催し、8月4日まで放送された「夢のMC超人タッグトーナメント」企画である。この企画は過去の相席食堂のロケ映像を千鳥以外のトーナメント参加者二人が見て千鳥の代わりにMCを行っている映像を見ながら、千鳥がMCとしてコメントするという企画である。この企画においては計4組のタッグが二回ロケ映像を見てMCをやりその合計点を競う。このトーナメントの一回戦でかつみ♥さゆりは、林家ペーパーのロケ映像を見ており、2回戦で純烈の小田井涼平のロケ映像を見ている。なぜ小田井涼平かといえば、彼がロケ中にスフレをもってきた女性に対して「僕のスフレです」と言うボケを三回やるなどかつみ的なロケをしたからである。つまり、この論と同じく「夢のMC超人タッグトーナメント」のかつみ♥さゆりのMCはボケ=命令的演出(林家ペーパー)から赤影参上(小田井涼平)へと展開するのだ。

 この2回戦で、かつみは小田井涼平を絶賛するわけだが、この絶賛とその解説によってかつみの赤影参上の真意が初めて明確になる。この回でかつみは「僕のスフレです」を連発する小田井を高く評価し、「一回目アカンかっても二回目おもろなる時ある」と言い、「二回、三回、四回と繰り返す間に一回目が効いてきて面白くなる」と熱弁している。

このかつみの理論は千鳥に一蹴される。実際、このかつみの論理は一般的な「お笑いの文法」を逸脱している。一般的なお笑いの文法でも、このように繰り返す用法はある(テンドンなど)が、しかしこのかつみの「つまらなかったものがn回目で面白くなる」というのはあり得ない。通常のお笑い文法に含まれているパターンを見てみよう。

①一回目が面白い場合、二回目も面白い(テンドン)
②二回目つまんない場合、二回目もつまらない(テンドン・いじられ、無茶振りを含む)
③一回目が面白く、二回目で失敗し、三回目で面白い(フリ)
④一回目が面白く、二回目で失敗し、三回目上手くやるがつまらない(いじられ、むちゃぶりであるパターン)
④一回目がつまらなく、二回目で失敗し、三回目でもうまくいかない
⑤一回目失敗し、二回目で成功するもつまらない(無茶ブリ)
⑥一回目失敗、二回目失敗し、三回目つまらない(同じく無茶振り)

上記に見られるように、一回目で面白い場合以外が面白くなるパターンはお笑いの文法にはない。そもそもお笑いには3つ目で落とすという文法があるため、かつみのいうように一回目がつまらなくても二回目で、という言説や何回も何回もやれば面白くなるときがあるということ自体がおかしい。しかし、実際にはお笑いの文法に沿っていれば面白いかというとそういうわけではない。上記の例は様式美のようなものですバラエティのルールとして用いられるものである。そして、むしろこのルールが重要になってくるパターンは、一人の人間、つまり無茶振りされたり自発的なりによってボケる側の芸人がこの文法を解していない場合である。そのため、本来かつみの理論はお笑いの文法を知らない人としての面白さとして最初千鳥には理解されていた。しかし、番組後半で千鳥はこのかつみの理論を「わからせられる」。それはかつみの「やった!」というボケの三回目の時である。かつみの手が当たってないはずなのに、かつみの手持ちのボタンが押され、ボタンに録音されていたかつみの「ちょっとまてぇ〜!」という声が流れる。

 この瞬間、かつみは驚く。千鳥も驚き、爆笑する。かつみの論理が千鳥の論理(お笑いの一般文法)の裂け目から飛び出したのだ。

n回やればおもろなるときがあるというかつみの理論は明らかに自らの意図を超えており、その都度偶然的な性質に賭けていることになる。お笑いの文法はあくまでMCなりツッコミなり場を作る人間の法則であり、支配者(主権者)の原則であるのに対して、かつみの理論は常に偶然的であってそれ自体はつまらないものである。このかつみの偶然的面白さは最終的にお笑いの文法に、バライティの規則に回収されてしまうものである、つまり面白いものになって笑われてしまうものである。しかし、常にかつみがつまらなさを賭金にしていることで、自らの意図していないお笑いを呼び出そうとしているのがわかる。

 実際、この理論は「つまらなさ」を売りにするようなピン芸人(ピン芸人とはツッコミがいないものであり、お笑いの文法(支配の原則)を適用されないものである。つまりその都度お笑いの法が適用されるアナーキーなのである。)ではよく見られる。例えば、千鳥が相席食堂で「自分の芸が下手すぎる」と称した芸人(コウメ太夫、横山ひろしなど)は全員そうである。「自分の芸が下手」ということは、彼らの芸が自らの支配下にないお笑いへ常に呼びかけているということであり、彼らのつまらなさが面白いものに転換するのは予測不可能であるからである。自らさえも把握し得ない笑いに身を委ねる態度、これこそがつまらなさのお笑いであると言えるだろう。

 1つ具体的な例を挙げるとすれば、コウメ太夫のお笑いは自らに驚くお笑いであると説明できるだろう。コウメ太夫は自分の手に書かれたネタ(エクリチュール)を自らの歌にのせて読み上げる(パロール)。この瞬間コウメ太夫は驚くのだ。エクリチュールとパロールを歌というリズムにのせることで自らの身体に帰ってきた言説の意外性に揺さぶられる。まさに「自分が初めてネタ読んだかのように発句」するのだ。この点でおどおどして困惑しているコウメ太夫が散見されるのも説明がつく。千鳥が相席食堂にてロケをするコウメ太夫について「自分が自分に慣れていない」と称したのも核心をついている。つまり、コウメ太夫の本質は「何も理解していない」ということであると言えるだろう。

 このように常にピン芸人はツッコミの不在によって固定されたお笑いの文法という法を逃れ、偶然性によってその法を突き破る手法を手にしているのだ。だがしかし、このアナーキー的なお笑いもお笑いの文法に再度適用されてしまう。つまり、偶然性はその都度消え失せ、反復可能なものになってしまうのだ。

第二部について


 これらの分析を踏まえ、第二部ではまずテレビにおいてバライティ番組がいかにして、面白いとつまらないの根源的でスリリングな関係を抹消し、反復可能なものにしているのかを分析する。そしてその次にアニメ作品などにおけるお笑い芸人などが演出とつまらなさによって成り立っており、「めちゃめちゃ面白い」という表象の不可能性を考える。その際明らかになるのは、あらゆるお笑いがある種の根源的なつまらなさに規定されているということである。

 これについては後日後半第二部として公開する予定である。

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