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イカダから流されて溺れる話

昔から「イカダで溺れ死ぬ」という謎の妄想に取り憑かれている。3人でイカダに乗っていて、私ともうひとりが落ちたときに、私じゃない方のひとりは手を握ってもらって助かり、私は激流に流されて溺れ死ぬというものだ。

何が言いたいかというと、私は友人やご近所仲間や同僚やその他たくさんの人に愛されて生きている自覚はあるけれども、危機的状況に置かれたときはみんな家族やパートナーを優先的に助けると思うので、私の手を真っ先に握ってくれる人はいないのではという憶測の話です。自分でこの文章を書きながら我ながらすごい拗ねた世界観に住んでるな、とドン引きする。

そんな話を東京の親友と電話でしていたら「すげえ、わかる」とまさかの共感で返された。彼は「神様のゲーム」という妄想癖があるそうで。ある日、神様が「いちばん大切な人を答えよ」という問いをだす。そのゲームでは、自分にとっていちばん大切な人が合致したもの同士だけが生き残れるのだそうだ。その話をきいて、多かれ少なかれ人は根拠のない孤独感や虚無感を抱えて生きてるものだと実感した。

そんな話をシェアメイトにしたら「なんでわざわざそんな妄想するの。そんなことばかり考えてたらそりゃ疲れるわ」と一笑に付された。たぶん彼女の感覚が健全で正しい。誰がいちばんだなんて本当は存在ないし、私がイカダに残る側なら全力でふたりとも助ける。てか、そんなシチュエーションがそもそも起こり得ないよね。

また、私がとても尊敬している聡明な友人は日頃から「私はホームレスになっても幸せだと思う」と言い切っていてとてもかっこいいなと思っている。彼女はイカダから流されてもきっと自力で岸まで泳ぎきるだろう。自立と自律さえあれば人はひとりでも充分幸せになれる。

たぶん、自分の幸せや救いを人に依存している限り私はずっと幸せにはなれない。そんなことは10年前からわかっている。考えすぎることは身体の毒になることも。でも、じゃあ、どうするの?というところで未だに私は闘い続けてます。


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