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"いばしょ"と、日常

非日常は、ワクワクする
日常は、淡々としている
以前の私には、そんな感覚がどこかにあったのかもしれない
いくつかの"いばしょ"と関わるなかで、それが少し変わりつつある
“日常”って、なんだろう

***

だいぶ前の話だが
連休、いつも通り開けていたいばしょに
近所の5年生の女の子がやってきた

彼女は、普段は塾に習い事に…とても忙しい
そんな中でも時々やってきて
学校や塾の宿題をやりながら、合間に友だちと遊んでいる

ある時彼女が友だちと思いっきりふざけて遊んだ後
大人びた彼女が、寂しげなため息と共に
"時間無駄にしちゃった"、とつぶやいた
私にはそれがすこし悲しく響いた。

非効率でも、何かの役に誰かの役に立たなくても
子どもにとって、(そしてきっと大人にとっても)
”無駄”な時間、"意味のない時間"は必要だし
そういう余白が結果的に創造的な何かを生み出すと信じている
(私も自分のことではなかなかそうは思えないことも多いけど)
彼女が、そういう何気ない日常の時間を
ただ、いつくしむことができたらと願っていた

その日は、彼女とその友だちのかねてからの希望で
スタッフと材料を買いに行き、スライムをつくる日だった
それだけといえばそれだけのことだけど
彼女は朝来てからずっと目を輝かせていて
(本当に、目を輝かせるってこういうことかと思うくらい)
いつになくリラックスした表情
その表情をみて、私は泣きそうになった
心から嬉しかった
待っているだけでまだ何もしていないのだけど
この時間はものすごく尊いと思った
("スライムつくりたい"に予算をつけ形にした別のスタッフのファインプレーに感謝)

スタッフと子どもたちで一緒に材料を買いに行って、
今か今かとつくる時間を待ち
3時間もかけてひたすらスライムをつくっていたそう
(自分が午後から仕事で一緒にできなかったのが残念すぎた)

結果的には、あまりうまくできなかったらしい笑
何を生み出したかという結果をみたらきっと”無駄”な時間
でも、ワクワクしながら待つ時間、朝の期待の目
いろいろとこだわってものすごい時間をかけてつくるその時間そのもの

過程がきっとすべてで、尊いんだよね
わたしは、そんな彼女の目の輝きにふれられたことが、
本当に本当にうれしかった

こちらが準備して来てもらう、非日常のイベントではない
子どもたちの”やりたい”から、ここでの日常を、くらしを一緒につくっていく
そんな日常のちょっとした非日常を
結果だけじゃなくて、その過程を
大切に紡いでいきたいのだ

最近、そんな日常の小さなできごと一つ一つがいとおしい

***
もう一つかかわる子どもたちのいばしょでは、私が夜ご飯をつくる
おせっかいだとわかっているけど
普段は一人暮らしだから、誰かのために料理するのが純粋に嬉しいし
できるだけ野菜を多くして、手間をかけて、じっくりつくろうとしている
(自分のスキルには限度があるが)

関わってくれてるボランティアの方が、ふと
”手作りって私には新鮮で嬉しい”とつぶやく
その方にも、いろいろな家庭背景がある
手作りが善でも正義でもないと思っている
愛のかたちはひとつじゃない
でもそれで、日常の何気ない食事を通してひとのぬくもりが伝わったら、
わたしはそれも嬉しいと思う
だから、日常のそんな営みを、一緒につくる暮らしを
丁寧に紡いでいきたいと思う

***
自分自身、ひたすら非日常を求めてイベントや各地を飛び回っていた時期があった。
冒頭にも書いたが、飽きっぽい私は”日常”をおろそかにしがちだったのかもしれない
そんな自分がいま、いばしょに関わりながら
その小さなおもしろい”日常"に
意味とか意義とかを求めてしまう自分が
少しずつ溶けていっているような感覚があって
それが心地よくさえ感じられる

先日、多摩川を、久しぶりに会う友人と散歩した
学生時代は”環境活動”でつながっていて、それ以外で会うことはなかった友人
7年たち、たまたま近所になって何気なく一緒に散歩した
気づいたら5時間がたっていた
ぼーっとしたり、網がなかったので落ちていた竹とタッパーを組み合わせて小さな魚を取ろうとしたり、水切りをしたり(二人とも田舎っ子)、
ひたすら遊んだ
心から楽しかった

クラスとかサークルとか、何気ない友人関係が得意じゃなくて
どこかに、”自分なんかといても楽しくない”という想いがあったから
以前は活動を通してだったり、何か共通の目的のために人とつながることが多かった
何かを為さなきゃ自分の意味がないという想いも強かった

そこから今もつながってくださる方も多くて、
それは本当にありがたく、私にとって大切なつながりだ

けど同時に、こういう何気ない時間を一緒に過ごせることを
わたしは大切にしてこれただろうかと思った。

最近、河原やカフェが大好きになったのも
どちらも、何かを為さなくてもいいばしょで
でも、ただいるだけで
ほかのひとの存在やいのちの息づかいを感じられるからなのかもしれない

もちろん想いや活動を通した関係性も大切にしていきたいし
同時に、いまはそれ以上に、ぼーっと川を眺めたり
何気ない時間を共有できる関係性を、大切にしていきたいと心から思う

***
どこかへ遠出をしたり、大きなイベントをしたり
そういういわゆる”非日常”が少し難しい今の社会の状況の中で
コロナ下の日常を、いばしょを
大切に重ねていく中の小さな変化を、”日常の小さな非日常”を
そっと大切に、紡いでいきたい

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