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かえりみち白線だけを踏むルール交叉点にて路頭に迷う

二週間に一度、心療内科に通っている。
予約をしたら予約時間に行かないといけないというプレッシャーで体調が悪くなったり、予約時間に行けないと自己嫌悪で二度と行けなくなってしまうこともあるので、主治医の診察日の空いてそうな時間を見計らって予約せずに受診している。当然、予約優先なので待たされるのだけど、待つことはあまり苦痛ではない。

初めて双極性障害(一般的に躁鬱病と呼ばれている精神障害)だと診断されてから6年が経った。最初は大阪のクリニックに2年ほど通っていたが、順調に良くなって社会復帰することができた途端に通わなくなってしまった。

昨年、再発して今のクリニックに通うようになった。最初の半年くらいは細かく質問されて話を聞かれていたけれど、症状が軽くなって安定しはじめてからは「この2週間、どうでしたか?」という質問をされ、簡単に報告し、薬の量を確認して終了する。
いつだって気分の波はあるけれど、それでも投薬でコントロールできる程度なので、最近は処方箋を貰いに行くためだけのような気がしてきていた。

小学生の頃、校舎内にはバリアが張ってあるという妄想をしていた。校門を出ると、そのバリアが無くなってしまうので白い部分だけを踏んで帰らないと死んでしまうという自分だけのルールを作っていた。そのルールでは、砂利道や赤茶色の道は死なないけれど、真っ黒なアスファルトは、踏んだ途端に死んでしまう。下校時は、いつも一人だったので、平均台を渡るような格好で歩道の縁を歩き、飛び石を渡るように、横断歩道をぴょんぴょんと渡って帰る。毎日同じルートで、毎日無事に家に着いた。

ある日、下校の準備をしていると、瞳ちゃんに「今日、ウチに遊びに来ない?」と呼び止められた。瞳ちゃんは背が高くて髪が長くて、黙っていても目立つタイプの女の子で、少し大人びたところがあった。私は、彼女のくりくりと大きな目を見ながら無言で頷いた。
彼女の家は、私の自宅の方向とは真逆の方向だった。2人で裏門を出て並んで歩いた。そのときも、私は白線を踏んでいた。しばらく歩いて交叉点に差し掛かる。とても小さな交叉点で横断歩道はなかった。瞳ちゃんは、その道を渡っていく。私は戸惑った。一足踏み出せば、そこは真っ黒なコールタールの激流だ。対岸に居る瞳ちゃんは不思議な顔でこちらを見ている。私は彼女に聞こえるか聞こえないかの小さな声で「ごめん、やっぱり帰る」と言った。そこから先の記憶はない。

6月のある日、いつものように診察室の椅子に座った。医師はいつものように「調子はどうですか?」と聞いた。私は「今週は少し落ち込んでいます」と答えようとしたが、上手く声が出なかった。顔を上げると、その途端に大粒の涙が2つ3つぽろぽろと溢れた。自分で何が起きているのか、わからなかった。気付いたときには、私は呼吸困難になるほど泣いていた。

精神的に落ち着いた今だから書くけれど、今年の上半期の私の精神状態は異常だった。同世代や少し下の世代の結婚、妊娠、出産が立て続けに何件も重なって、常におめでとうと言い続けていた。そして、おめでとうと言うたびに、目の前で流れるコールタールの川は大きく深くなった。
いつの間にか、私と一緒に歩いてたはずの人たちは、橋をかけたり舟を浮かべたり、ひょいと跳び越えたりして、あちら側へ渡っていってしまったのだ。川の前で立ち止まっているのは私だけだった。今年の上半期、私はその現実に気付いてしまった。

「ごめん、やっぱり帰る」と言って来た道を振り返ると、そこにあったはずの白線は真っ黒なアスファルトに変わっていて、バリアを張っていたはずの学校は見えないほど遠くなっていた。帰る場所も見つからず、前にも後ろにも動けない。そんな感じだった。

その日、泣きながら黒い部分を踏んだ。
私は死ななかった。

当然だ。
そんなのは、自分が作った
自分だけのルールだったのだから。