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ピクニックしてたら県民性と市民性が気になった

近頃のテレビには一般人ばかり出ているなと思う。インフルエンサーという職業ができて、一般人の中でも芸能関係に限りなく近い枠組みが構築されたからか、なんというか街頭インタビューなのに見たことある人が出ていたり、本当にただの一般人だったのに企画の度に出演して準レギュラーポジションになっていたり。別になんとなしに見ているけれど「県民性」などという言葉で小馬鹿にされているようなものを見ると腹は立つ。ちなみに"県民性"は風土や食文化、考え方など都道府県ごとの人々の特色を指すらしいが、"市民性"はより良い社会実現のために、まわりの人と積極的に関わろうとする意欲のことを指すらしい。岩手とか青森は県の中でも風土や文化、言葉が変わるからなんとなく"県民性"みたいな感じで"市民性"と使いたくなっちゃうんだけれど違うみたい。


さて、「県民性」とはなんだろうか。
この前、ぷーちゃんに岩手山神社に行ってきた話をしたら「いい神社だよね、目がないというか"山"の神様を祀っていると体で感じる気がする。あの山があって、雪解け水があって、私たちなんだなって思う」と言っていた。岩木山神社も似たような感じだったそうで、けれど、もう少しだけ無骨というか荒々しいというか、そんな感じがしたそうだ。その土地の人と神様は似ていると感じた、と言っていた。残念ながら全くわからない。

私は岩手県の沿岸で生まれたから醤油は「富士勇」や「山田のしょうゆ」みたいな濃くて甘いものが好きだ。けれど盛岡はそうじゃない。祭りといえば港で虎舞だったけれど、盛岡に移ってからは、さんさ太鼓の音色こそ祭りと思う。岩手にいた頃はお花見なんてしたことなかったけれど、宮城に移ってからお花見は文化なんだと気がついた。SNSでよく見かける「〇〇県民あるある」がそれを判りやすく視覚化しているようでいて、果たしてこれは県民性なのだろうかと思うこともある。お墓の前で宴会する文化を見た時は流石に県民性と感じたけれど。


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3月に長期で岩手へ戻ったとき、スカートが短いJKも腰が曲がったおばあちゃんもサラリーマンも、まるで観光客のように橋の中腹で立ち止まり岩手山を写真に収める光景を見て「盛岡に帰ってきたな」と思った。私は小学校から盛岡に移ったが、盛岡の小学校や中学校は来賓に綺麗な岩手山を見せるための窓があると聞いたことがある。確かに、小学校も中学校もそうだった。

もっぱら海好きの私も「今日の岩手山はかっこいい」と素直に言葉にする。シンメトリーじゃないところがいい。その隣にいる姫神山がシンメトリーなところもいい。凸凹カップルって感じ。けれど、姫神山は写真に撮らない。撮るのは岩手山だけなのだ。これが県民性かと問われたら、答えはNOになる。


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夏までの過ごしやすい休日の過ごし方は、もっぱらピクニックになっている。車を走らせて(もらって)、パン屋やコンビニに立ち寄りながら少し景色がいいところでランチタイム。休日昼時でも席が空くまで待つこともないし、混んでるからと足早に席を空ける必要もない。お気に入りの場所を探して何度でも席移動が可能。たのしい。

御所湖
湖をぐるりと囲むように
温泉街やレジャースポットが並ぶ

連休後半もなんだかんだほぼ毎日ピクニック。風のないジリジリと暑い日に立ち寄った湖は雪解けの岩手山を望む穴場……と言いつつ、日中に訪れたのは数年ぶり。いつもは友達と夜に星を見にきていた駐車場を目指す。

前日の残りのパンと
イベントで買ったマフィン

ピクニックには立派なお弁当を作る必要も、おしゃれなカフェのテイクアウトも必要ない。この日はパンだけでは物足りないからとコンビニでカップスープと生ハムと、からあげくんと値引きされたアメリカンドッグを買った。パーティーじゃん。

目線をずらせば、凪の湖畔に映る逆さ岩手山。
陽射しを避けるように座ったベンチも、反対に座れば絶景と気が付けば席替え。立派な椅子やテーブルも買ったけれど実際のところまだ使っていない。

散歩に来た人、犬と歩く人、家族づれ。
みんないい過ごし方をしているね、と眺めていたがよくよく見るとランチタイムを過ごしている人は多い。立派なお弁当、カセットコンロとカップヌードル、テイクアウトのモスバーガー。え〜〜〜みんなピクニックじゃん、最高。

「湖に降りる階段に木を植えたのは天才」的なことを言っていた(満腹で半分寝てたごめん)。
確かにそうだと思った。そして、御所湖にピクニックが根付いているのはこの環境があったからなのか、私たちの生活スタイルがあったからなのかが気になった。この風景は"市民性"の結果なんじゃないの?と思いつつ。


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