見出し画像

甲州街道


「ねぇ。妄想って亡き女を想う、って書くじゃん。
じゃあ女が亡き男を想う時は何て言葉をつかえばいいんだろう。
好き、だってそう。女子って書くんだよ。何て男目線なんだろう」

「うーん、まぁ、確かに」 

いつも通り大学の真ん前に真っ直ぐ伸びている甲州街道沿いを歩く。
いつもと違うのは隣に誰かがいること。

おれの出不精、メール不精、電話不精に耐えられなくなった二こ下の彼女に去られてから、
気付いたら1年近く経っていた。

とりあえずいつも通りタブレットを二つ口に放る。

「いる?」

「いらない。おいしくないじゃん」

確かに旨いもんじゃないけど意外に誰もそれに気付いていないかもしれない、
などと妙に考え込んでしまった。

実家にいた頃は通学路っていうものはもっと味のあるものだと思っていた。
商店街を通って、住宅街を通って、駅があって。

住む場所を選んだのはおれだから誰にも文句は言えないが、
ひたすら甲州街道に沿って歩いて、ちょっと奥に入ったらもう家に着いてしまう。
目に入るものは、大量の車とすっかり暗くなった街を照らす街灯くらいしかない。

「あのさ、人って停まってる車とか障害物が目に入ると、
危ないってわかってるのにそっちに近づいちゃうんだよね」

最近免許を取ったらしい悠子は何かにつけて車の話を出す。
飼ったばかりのペットの話をするように。

「それって何て言うか、すごい人間の本質を表してるような気がする」

そう言いながら右手を俺の上着の左ポケットに突っ込んできた。

「やめろよ」

おれもポケットに手を突っ込んでいるから既に定員オーバーだ。

「寒いんだもん」

ポケットの中で冷たい乾いた手に触れると左手から全身に鳥肌が立つようなぞくぞくする感覚になり、照れた。

「なら手袋くらいしろよ」

「手袋を買う前に冬が来たの」

こんなことを言う女は嫌いだ。

「お前さ、何であんなおっさんと一年も付き合ってたの?」

「不倫とか楽しいかなって。年上の男の人ってどんな感じなんだろうって思ったから。でも、いつの間にか抜け出せなくなってた」

悠子のすることは、危うい。

俺はいかにもしょうがねぇなぁ、という顔をつくってからポケットの中の気休め程度に温まった手を握った。

ちらっと左を見るとそんな俺の陳腐で懸命な演技など全く気に留める様子もなく
悠子は街を楽しそうに眺めている。

「こんなところにラーメン屋さんあったんだね。おいしい? ここ」

「いや最悪。何で別れたの?」

男たるもの、若干の落胆もきれいに隠して淡々としていなければならない。

「行き詰った。何の発展も望めなくなって、むなしくなった」

「そんなもんか」

おれの声は白く弱く吐き出され、張り詰めた空気の中に消えていった。

車がびゅんびゅんと通り過ぎるいつまで経っても明るいこの道でもこんなに冷え込むなんて、北国の田舎で育った俺にとっては不思議に思えてしまう。

車が出す熱は、街灯が出す熱は一体どこに行ってしまったのだろうか。
おれが出す熱はちゃんと悠子に伝わっているのだろうか。

ポケットの中にある指の先を触るときゅっと張り付くようなマニキュアの感触がした。
今日悠子はどんな色のマニキュアをしていたかなんて、全く記憶にない。

左手を見たくてもそちらは悠子のコートの中にある。

「ねぇねぇ、雪降るんじゃない?」

俺の肩の位置より低いところから見る空はどう見えるんだろう。
この小さな手には俺の手はどう感じるんだろう。

この細い体にはひょっとしたら耐え難い寒さなのかもしれない。

俺は悠子のことを何も知らない。

「これだから都会の人間は。今日みたいな日は降らねぇんだよ。
だいいち雪なんて降ったってちっとも、」

そう言いかけると俺の手の中の手に力が入った。
見るとその手の主の目は、潤んでいるようだった。

「そうだよ雪なんてずっと降らなきゃいい。そしたら、思い出さなくて済むし」

その潤みは段々と奥二重の目の中を支配し、支えきれなくなった瞼からしずくになって溢れた。
涙はこうやってできるのか。また一つおれは賢くなった。

悠子は涙をすぐに左手でぬぐうとまた自分のポケットに突っ込んだ。

オレンジに近い鮮やかなピンク色が残像として残った。
そしてぐすっと鼻をすするだけで何も変わらず歩き続ける。

「勝手だよ、お前は。勝手に思い出して勝手に泣いて、で、何を思い出したかも言わないんだろ」

女が泣いたからっておれは甘やかさない。泣き止ませたいなら逆効果だ。
それまでと同じように接した方がさっさと涙は止まってくれるというのは、
これまでの乏しい恋愛経験の中で覚えたことだ。
と同時に憤慨、激高されるというデメリットも覚悟しなくちゃいけない。

今日はどっちか。おそるおそる左を見ると悠子はきょとんとした顔をしていた。
嵐の前の静けさなのだろうか。そしてへらへらと笑い出した。わけがわからない。
歩き続けて温まったはずの俺の背筋に冷たい汗が伝ったような気がした。

「そう、勝手なの。あたし本当はめちゃくちゃ勝手なの。なのにいい子になりすぎてた。だから、疲れちゃったんだね」

そう言って悠子はうつむいた。なんだかすごくうれしそうに。

俺はもうすぐ着く俺の家で悠子のことを抱こうとしてしまうかもしれない。
こいつはちゃんと拒んでくれるんだろうか。

危ないとわかっていてそれに近づいていってしまうのはもちろんおれだって例外じゃないなというわかりやすいオチがついたことに気付き、
悠子に悟られないように一人にやけた。
 

  
(了)

お読み頂きありがとうございます。最近またポツポツとnoteを上げています。みなさまのサポートが私のモチベーションとなり、コーヒー代になり、またnoteが増えるかもしれません。