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四肢を捥がれた虎

頬を預けた大地にさやぐ草の香りが心地よい。
今は命が芽吹く季節。
わたしがこのような状態になってからすでに季節は半周した。

草の隙間にのぞく薄青の空からは、生暖かい日差しが降り注ぎ、緩い風がわたしの湿った軀を吹き撫でていく。昨晩の驟雨をたっぷりと染み込んだ土の香りは鼻腔をくすぐり、光を反射した無数の雫はゆっくりと葉の先に垂れ、そして静かに落ちていく。わたしの頭のはるか上には美しい深緑の葉を茂らせた古木が天高くそびえ、その枝の先には小さな白い花が群れて陽に向かって咲き誇っている。

第一章

古木が湛える無数の葉の隙間からこぼれる日差しはだんだんと熱さを増し、その熱は風に温かさを遷していく。遠く広がるこの草野の果てを眺めながら、その風をじっと感じていた。

すると、ふいに視界が寸秒薄暗くなり、そしてまた陽が照りつける。そしてまた先ほどよりも濃い闇が横切り、去っていく。その闇は濃淡を変えながらしきりにわたしを襲っては消えていく。どうやら、わたしと太陽を結ぶその直線上に、何かが割って入ってくるようである。連続する光と闇の交差は、彼がわたしを狙っていることを示唆していた。

大鷲。

その存在をどこかで聞いたことがあった。どこからか飛んできて、生きているもの死んでいるもの構わず自分の巣穴に連れ去る大きな鳥がいるのだと。そして、それが両翼を広げた時、わたしたちはまるで自分の小ささを痛感しないわけにはいかないのだと。
風の噂に聞くには、連れ去られたもので帰ってきたものは一人もいないそうだ。

彼はわたしの視界の角、わたしが身を屈めて伏せている古木からそう遠くない場所にあるごつごつとした岩場に羽をおろした。視界の一角を埋めた黒いシルエットは威厳を放ち、噂に聞くよりも大きく感じられた。

(お前の命が尽きるまで、その軀を貪り食らったりはしない。)

彼が発した声は音低く、ずっしりとした鉛のような響きを持っていた。

(虎であるお前のその軀に四肢がないことに気づいたときは、驚きのあまりにまぼろしを見ているかと思った。しかも、宙からお前を眺めているときはまさか生きているとは夢にも思わなかったが、その軀が風に吹かれた弾みで身震いをした瞬間を見たときには、衝撃で頭を殴られたようであった。ここで横たわるお前を見つけてから数日、遠くからその様子を見ていたがおもしろいことが起こっていることよ。
無用心にも虎であるお前のすぐ近くを通り過ぎた、あの兎、牛奴、羊たち皆が、ふとお前のその縦縞模様を見つけては慄き、お前のその牙が、爪が、自分の軀を引き裂きに追ってくる光景を勝手に想像して一目散に駆けていった。彼らの誰も、まさか、草に隠れたお前の軀から四肢が捥がれているとは知らない、想像もできなかったことだろう。

また、お前みたいに肉を食らって生きているやつらも同じだった。遠目にお前の姿を見つけては、お前が狩った獲物の残りカスを期待し息を潜めてお前の牙が獲物にかかるときを待っていた。けれども、やつらの期待に反してお前は一歩も動かない。獲物を目の前にしても微動だにしないお前をみては、期待はずれだった、あの虎は出来損ないだと勝手に落胆して去っていった。なぜ、お前が獲物を前にしても動かないのかという疑問を持つこともなく。そして、一歩だに動けないお前を狙うのが一番手っ取り早いということにも気づかず。

この草野に点々と立つ木々が暗闇に呑まれ、黒いシルエットに化わりはじめた夕刻。獲物を抱え巣に戻る途中だったわたしは、この古木の根本に伏せているお前を見つけた。そのときは気にも留めなかったのだが、次の朝獲物を狩りにその古木の上をを通りかかるとお前はまだそこにいて、よく見てみると草の上に伸びているであろう前脚がついていないことに気づいた。しかし、お前の周りには血の一滴も垂れた様子はなく、怪我をしている風でもない。そして、前脚だけでなく後脚もない軀に気づいたとき、驚きとともに、まずわたしはわたし自身の本能のためその肉を食いたいと思った。

しかしながら、遠くお前の様子を見ているにある一つの好奇心が生まれた。四肢のない虎はここで命尽きるのか、それとも運命を変えることができるのか。その行く末を見届けるためお前を遠くで見ていたわけだが、決して嘲るためでなく、ただお前の話を聞いてみたくなりここに飛んできた。)

心地よい風が吹き抜け、どこからか細く伸びた雲の群れがゆらりと流れてきた。

わたしはふぅと息を吐く。順序よく訪れる明暗の交錯が彼のシルエットだと悟ったとき、わたしはその一瞬確実に死を意識した。それはある意味では、四肢を失った自分への諦めであり、ある意味では遂にこの苦しみの終焉を迎えられることへの喜びでもあった。
しかし、彼の独白を聞けばこの苦しみはまだ終わらないらしい。わたしを救うとも殺すともせず、ただ見守るという彼の身勝手な好奇心には少なからず憤りを感じざるを得なかった。そして憤りは、だんだんと自分への虚しさに変わり、こんな状況でも何もできない自分へのひどい鬱憤に変わった。
死への喜びを感じたその心の隙は、再度やってきた「生」という現実をカリカリと蝕んでいくように感じた。


第二章


元来、わたしは強靭な四肢を持ち、一見他の虎と何一つ変わらない容貌を持っていた。不気味な厚さに鈍る光を放った爪をはやし、地を駆け岩を飛び越え木を駆け上るには十分すぎる太い脚を持っていた。
わたしの余りある躰力は、山を一つ、二つ超えるはたやすく、その道中たくさんの獲物を追いかけ狩りをしてきた。そうして居場所を少しずつ変えながら、新しい森を渡っていたとき偶然にもあの道を見つけた。ゴツゴツとした大きな岩が屹立し、そこを抜けると背の高い木々が枝を絡ませてトンネルを作っている。枝についた葉がカサカサと揺れ、その不気味なざわめきはトンネルの奥へとわたしを誘い込んだ。トンネルの天井は奥に行くにつれてだんだんと迫ってくるようで、同時に暗闇は深い黒に変わっていく。森のざわめきは聞こえなくなり、ただひんやりと漂う空気を裂くように歩みを進める音が大きく反響する。暗闇の中わたしの視界はほとんどなく、ただ道の気配を辿って前に進む。道はただひたすらに一本道であったが、木のトンネルはいつの間にか岩の壁に変わり、すべすべと冷たい岩はわたしの軀の幅まで狭まってきていた。出口の見えない恐怖は少しずつ膨れ上がり、一方で膨れた恐怖心の中には出口への期待からくる幾らかの高揚も含まれていた。そのような鼓動を感じながら、この細い岩間の道を歩き続けると水の垂れるような音が聞こえる。と同時に、僅かに暗闇の濃度が和らいだ気がして、前方に目を凝らすとその先には小さな光が見えた。

光は少しずつ大きくなり、水の音の輪郭は先ほどよりも鮮明になってきた。前方から後方へと空気の流れが出来始め、流れに乗って届く草の匂いが強くなっていく。そして光の終点をくぐり抜けると、涼しい風が頬をかすめた。
遠く遠く、四方を険しい崖に囲まれた大きな空間が突如現れ、見渡す限り黄金の草野が広がっている。わたしが歩いてきた岩間の道は、この空間を囲む崖の一部だったようだ。風は一面に広がる金色の草を撫で、木の葉を撫で、崖の上へと吹き抜けていく。四方を崖に囲まれた窪地のような空間は、向こうの崖がほんの小さな黒い壁に見えるほど巨大であった。

一面に広がる金の草野に目を奪われ、高揚とともに2、3歩足を踏み入れた瞬間であった。不意に軀の右側、それも後ろ脚の付け根あたりに違和感を感じた。続けて視界がぐらっと揺れ、気づくとわたしは横に伏せていた。この一瞬に何が起こったのか分からなかったが、本能としてもう一度立ち上がろうと脚に力を込めた。のそりと前脚を立て、続けて後脚を立てたが、後ろに引っ張られるような感覚のあと、気づけば仰向けに転がっていた。

どうしたものかと己の軀を検めた。わたしはその時はじめて、右の後脚が失われたことに気づいた。不思議と痛みはなく、傷を負っている様子もない。ただ、あるはずの脚がなく、ないはずの空白が生まれた。

何かの間違いであろうと、うつ伏せになり、もう一度立ち上がる所作に入った。が、結果は同じだった。わたしの片脚は確かに失われていた。さっきまで脚がついていた付け根には、はじめから脚がなかったかのように、すでにふさふさとした毛が揃っていた。いたずらに転がって仰いだ空の橙は虚しく、この悲劇を嘆くには少しばかり熱な色であった。

それからわたしは残りの三肢で草原を移動した。1本になった後脚で左右に転げないように重心を保ち、のそりのそりと前へ進む。三肢での移動はいつまでもなれず、ちょっとした風に煽られ座り込むこともしばしばあった。また、狩りのほとんどはうまくいかなくなり、空腹が意識を蝕むようになっていった。夜の闇に紛れて、寝ている獲物に忍び寄ってはその寝首を掻き、久しい食事にありつけたときには涙が流れた。

日に日に体力は衰え、軀はずんと重く感じられるようになった。7つ夜を越える中で1度腹を満たせるかどうかの生活が続き、そして気づけば軀を支えていた1本の後脚はまたも突然失われた。


第三章


どんよりと重なるまだら模様の雲が、見渡す限りの空を覆っている。肺に入る空気はしんと冷たく、冬の味がした。後脚をすべて失ってから既に5度目の朝を迎え、その頃にはわたしの軀はひとまわりも、ふたまわりも小さく痩せ細っていた。それでもこの生に必死にしがみつくため、虎としての誇りである「狩」を捨て「罠」を覚えた。

わたしがはじめて脚を失った草原の入り口近く、厳しい崖の切り立つその一角に池がある。岩の壁面にある小さな隙間からしとしとと水が流れ、水の道は池へと続く。四方を囲む崖の上にはそれぞれ森がそびえており、森に降った雨は大地を流れ、そのうちのほんの一部が岩間の小さな亀裂を通ってここに流れ込むらしかった。1方を崖に3方を背の高い草に囲われ、忽然と存在する池の水は清く透明で、崖に近いところほど深い藍色をしている。この草野に生きるものたちは、池の近くを通ることがあればここで少しの憩いを楽しむ。

わたしは前脚を使ってその池のほとりまで這い、水際から数メートル離れた大地に痩せた前脚で穴を掘った。かつては肉を裂き、血を讃えたその爪をぼろぼろに崩しながら、一晩かけて自分がすっぽり入るには造作無い大きさの穴を完成させた。

穴には鼠やまだ生まれて間もない仔馬、猪までもが落ちこみ、罠にはまった彼らを上から見下ろしたときには久しぶりに食べ物にありつける高揚を覚え軀は自然と震えた。とはいえ、一度穴にはまったとしても大きな動物は穴を飛び越えて逃げていくこともあったし、穴の底から引き上げたときには彼らも渾身の力を振り絞って逃げようとするものだから、空腹な生活から抜け出せた訳ではなかったが、この不自由な軀で食を得られることに感謝しないわけにはいかなかった。

この草野には雪が降らなかった。冷気を大量に含んだ風が吹き降ろし足元に霜を作っていたり、崖の上に積もった雪がこの草野に崩れ落ちて山を作っている場所もあったが、この草野一帯が雪の下に姿を消すことは決してなかった。そうして毎日を凌いでいるうちに、夜の訪れは日に日に遅くなり、風の厳しさが緩んできたある朝。寝床にしている深緑の木の葉の隙間からこぼれた光に照らされて目を覚ました。わたしは地に顔を埋めて寝ていた。池のほとりに唯一立っているこの古木は、この草原のどの木よりも幹が太く、そして周りに生える草も背が高かったから、わたしが身を隠しながら獲物を待つには絶好の寝床であった。それでもこの縞の気配を感じ取って逃げていく動物はいたのだが。その朝、いつものように這って罠の様子を見に行こうとした。だが、もういつものように軀は動かない。気づけば前脚のどちらもそこにはなかった。わたしは遂に四肢を全て失っていた。

それからというもの、わたしは生への諦めを決意した。決意しながらも、飢餓というものは腹をえぐるような痛さを伴ったり突然に嫌な寒さを感じるもので、それに耐えきれず周りに生える青々とした草を見つけてかじってはその苦さに驚嘆しながら飲み込んだ。あの罠に落ちる動物もいくつかいたが、それを引き上げることはもうできない。絶望は、真っ青な空に吸い込まれていく。呑気な羊の群れが、そそくさと古木のすぐ脇を闊歩していく。わたしは身を捩りながらそれを眺めていた。

そうして経つこと数日。大鷲が飛んできた。彼の言葉はすでにこの生を諦めていたわたしを苦しめたし、またある意味では、自分でも気づかぬ間に生への執着心も掻き立てられていた。


第四章


わたしは思うのだ。

生きることが食べることであれば、四肢を失いそれを成せないわたしはもうすでに死んでいるのではないかと。だが、一方でわたしの軀は呼吸をするしかろうじて温かさを残している。生きているのに死んでいる矛盾の間でわたしは苦しんでいるのではないかと。わたしはこれまで狩りをしては生を感じて、また次の狩へと向かう。その繰り返しの道をただひたすらに駆けてきたのだ。それが四肢を失うことで生を全うする術を失った。
だが、大鷲は言った。
「四肢のない虎はここで命尽きるのか、それとも運命を変えることができるのか。」と。
わたしは運命を変えることが出来るのだろうか。

衰弱した軀が弱々しく震える。陽は青い空の中心へと昇り、この窪地全体を白く照らす。

「もし運命が変えられるのだとしたら。」

わたしは想像する。はじめて母の力を借りずに獲物を捕らえたときのこと、朝の森が放つ透明な空気のこと、これまで歩いてきた森の小径、どこからか聴こえた虫の声、思い切り駆けたときに胸が晴れるように感じたあの感覚、知らない森に入り込んだときの恐怖と高揚が入り混じった鼓動の高鳴り、崖の上から初めて見つけた海の大きさを。


あぁ、もっと世界を見てみたかった。

これがわたしの行き着いた命への執着であった。
そして、わたしはかすれた声でそう呟いていた。

大鷲は語る。
(お前には四肢も、ましてや翼なんてないが、その古木の元に伏せながらも見たい世界を見ることができるかもしれない。考えろ。視界に広がる雲の色、その形や大きさ、さらにその下に広がる森の色、そこから聞こえる鳴き声、風の温度や風の向き、揺れる花の色とその葉の質感にまで思いを馳せる。そうすれば、四肢を失えどもお前は自由自在に地を駆け空を舞う翼を得ることができるのだ。
それが、今のお前にできる「新しい世界を見ること」とは違うのか。)

ああ、そうだ。ここにいながら、世界を想像するのか。
絶望は和らぎ、胸に入った空気が軀中に広がり熱を施す。新しい生の目的を見つけた気がした。

- そしてわたしは目を閉じた。

視界は顔を埋めた木の根元から上昇し、木の葉をくぐり宙に出る。眼下には青い草野が広がり、遠くに点在する木々が暖かい風に揺れている。この草野全てを見渡せる。走り回る子馬の背中や、それを狙う大きな蛇の姿、群れをなして歩く羊たちや、岩場で憩う猿の親子の姿。
そして視界はさらに上昇する。崖を眼下に見下ろし、龍のように長く伸びた雲を切り裂き、わたしの視点はぐんと前に進む。わたしは三角に並んで滑空する鳥の横を一緒に飛び、そしてスピードを上げて追い越す。山々が左右に連なり、その間にできた空の道を猛スピードで進んでいく。風を切るその感覚が心地よい。飛び続けた視界の先に青い海を見つけ、そこを目指して進む。潮の匂いが濃くなってくる。そして遂に山を抜け、海原へと突入する。潮風は強く、波の音は優しい。見下ろせば波は生きているかのように畝り、藍色の海に光を反射させる。

まだ使い慣れないその翼は、潮風に吹かれ左右に少しずつ揺られながら海のその先を目指す。


第五章


4月、頬を預けた大地にさやぐ草の香りが心地よい。スカートの裾が春の暖かな風になびく。
草の隙間から見える薄青の空からは、ほかほかとした陽射しが降り注ぎ、桜の花びらがゆらりと降ってくる。

不意に大きな影がわたしを覆い、そして消える。草むらに座り直し影の行方を探すと、それはすでにこの草むらに降りていた。

「大きい鳥。」

わたしはそっと呟いた。こんなに大きな鳥は初めてみる。鋭い嘴に大きな爪を持ったそのシルエットはわたしの方とじっと見つめている。

(やっと見つけた。よくここまで。)

すると突然強い風が吹き抜けた。その風は潮の匂いを含んでいた。



エピローグ

四肢を失いし虎、空を駆けて海へと消える。
その行方、遂には分からず。
ただ一つ、その気配を探して飛ぶ鳥あり。
山を跨ぎ、海を越え、見つけし気配は人に変わる。
想像の翼は海の果てに新たなる路を見つけたり。

読んでくださりありがとうございます!