いまどき自由ははやらない

最近渋谷が盛り上がっている。ハロウィンなどでのあくまで善良な市民目線によるところの蛮行を受けて路上飲酒を禁止するという条例が渋谷区でいよいよ可決間近ということで、一部の"まとも"な人たちが反対闘争を断続的に渋谷駅頭で敢行しているようである。書籍で読んだ路上でのSCなどはこのような光景だったのだろうかと想像を膨らませつつ、連日流れてくる活動報告のつぶやきを眺める夜が続いている。

路上飲酒や喫煙を禁止する恐怖支配体制は必ず打ち砕かなければならないことは、殊渋谷のような昔から祭りの地であり少々ぶっ飛んだことをして仲間意識の確認がなされてきた場においては、直線の角度が180°であるくらいに当たり前のことである。このような常識くらいは最低限共有していたとしても、この問題には一筋縄ではいかないむつかしさがある。

この文章を書いている人は渋谷に集う人たちの仲間ではない。それどころか若い頃には外患誘導破壊都市(外国のミサイルを利用してでも破壊すべき都市)として指定していたほどにはできれば近寄りたくない街であった。これも当たり前の話で、祭りによるトランス状態による仲間意識の確認という文化を持たない外野の人からすれば、街で騒いでいる群衆は単なる迷惑集団に過ぎず、接触を避けたくなるのは自然の話である。より具体的にいうならば路上で飲酒している連中と遭遇してしまえば、最悪わけの分らぬ因縁をつけられる。彼らはそれなりに楽しいかもしれないが、トランス状態を共有しない者からすれば腹立たしいことこの上ない。ただしこの程度のことで街をミサイルで破壊したいほど腹を立てる人も昔はそこまでいなかっただろう。

条例は飲酒に限らず音量等にまで規制の射程を持つようで、制定されれば路上パフォーマンスや政治運動にも影響が出るという。しかしこれも大して警鐘にはならないだろう。趣味の合わないストリートミュージシャンによる演奏など存在自体が邪魔だし、一方で政治運動をしてみれば駅頭でマイクを片手に話していると迷惑そうな顔を浮かべる人も非常に多い。もはや"静かで綺麗で安全な街"しか市民からは求められていないことを認識する必要がある。もちろん彼らは中国のような体制には危󠄁機感を抱いているので一見過度な管理を嫌っているようにも見える。しかしあれは体制が管理したいものと市民の趣味が合わないだけで、本質的には中国的な管理社会が最もこの国の市民にとって快適󠄁に過ごせるであろうことは想像に難くない。

問題はではどちらと組むべきか、ということにある。路上飲酒を守りたいような連中とは確実にウマが合わない。自分にとっても路上飲酒などによる迷惑行為が存在しない、"静かで綺麗で安全な街"の方が快適だからである。しかしここで欲望に任せて善良な市民と組んでしまえば、理想的な管理社会の到来が約束されている。そして何よりも、彼らによって善良でないと判定されたものに対する憎悪(一般に迷惑行為では到底すまないすさまじい暴力となって現れてくるもの)を警戒しなければならない。ある分野において極端に適応に難があることを自覚しているからである。結論を言えば、路上飲酒を守るしかないのである。

自由を求める運動には"静かで綺麗で安全な街"を求める市民による反発が必ず現れる。個人で暴発してみたところであっさり権力に潰されるのみならず、市民の側が安全を脅かされたとして権力に泣きつき、より強固な管理を嘆願する。これでどうなるかは言うまでもない。対抗策は現状1つしかない。市民の"静かで綺麗で安全な街"に対する欲求を変に刺戟しないよう注意しつつ、管理社会への希求から少しずつ外していくことである。我々は組織を作り、規律に基き、計画性のある行動によってこれを実現していくことを志すものである。


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