新しい絵の会と造形教育センター

                 二つの創美批判 戦後の美術教育運動の出発点となった創造美育協会による運動は、主催者自身が困惑するほどの大衆的な広がりを持った一方、当初からいくつかの内部論争を抱えており、そのうちの主要な論点として、次の二つをあげることができます。 その第一は、創美が主張した精神の解放や児童中心主義のみでは、図工・美術教育としての指導の目標や指針が不明瞭ではないかという指摘でした。この背後には、芸術表現は個人の自由な精神の発露であると同時に、自然や社会に対する認識の反映であるべきだという考えがありました。このような認識論的な芸術観によるならば、美術文化の歴史は、自然や社会に対する理解や自覚を通じて発展してきたと捉えられます。そこでこの立場は、図工・美術教育においても、表現活動を通じて、子どもたちの社会的な意識を育むことや美術文化への理解の芽を育てることを主張します。 創美に対する批判の二点目は、創美運動がもっぱら子どもの絵画表現を中心に展開されたことに対して、工作やデザインなどを含めた、より広範囲な造形感覚を育てることを主張する立場でした。この背景には、戦前からの構成教育の考えがありました。構成教育はドイツのバウハウスの影響を受けた水谷武彦らにより、一九三〇年代の中頃にもたらされたもので、技巧の訓練や巧緻性の習得を主眼にしていた手工教育に、造形的な個性や感覚的な表現を盛り込むことを目指したものです。 このうち前者の主張を展開したのが、後に「新しい絵の会」を結成した人たちであり、後者の立場から生まれたのが「造形教育センター」です。 「新しい絵の会」の誕生 組織としての「新しい絵の会」は、一九五二年に「新しい画の会」の名称により、井手則雄、多田信作、前田常作、箕田源二郎。湯川尚文らによる研究同人的なグループとして発足しています。このメンバーの多くは、創造美育協会の活動にも参加しており、創美セミナールにおいては、「創造か認識か」という活発な論争を展開しました。ここでは当然、創造派が創美で、認識派が後の「新しい絵の会」につながるグループであったわけです。 これらの議論を経て、「新しい画の会」のメンバーは、認識派の主張に賛同した千葉創美の池田栄、遠藤英次、福島創美の佐藤昭一、鈴木五郎、君島主一、近畿美術教育協議会の栗岡英之助などとともに、一九五六年に全国的な交流を目指して「美術教育全国協議会」を設立します。その一方、同年、東京・日本橋高島屋で、グループの主張である「生活画」を主体とした『子どもの目でみた日本・今日の児童画展』を開催し、社会的にも注目されるようになりました。その後、一九五九年に「新しい絵の会」と改称し、全国組織に発展し、今日に至っています。 「新しい絵の会」の主張と課題 「新しい絵の会」が実践した児童画には、日常の細部にまで行き届いた眼差しがありました。それは確かに創美の開放的・発散的な表現には不足していたものであり、このような深い視点を子どもにもたらしたことは、日本の児童画をこれまでになかった地平に押し上げたものと言えるでしょう。 他方、同会は教科の内容を整理し、子どもの発達に照応した系統的な指導を確立することを主張しました。これも創美の表現方法を子どもの自由に委ねるという姿勢とは異なる方向でした。さらに戦前から提唱されていた作文教育である生活綴り方運動に学んだ物語の絵や民話を題材にした指導などを発展させたことも評価できます。 けれども、その一方、同会の標榜した子どもの絵のリアリティという課題が、方法としてのリアリズムに帰結してしまったのではないかという批判があります。たしかに風景や人物などをひたすら丹念に描き込むことに表現の歓びが見出せるかということには疑問があるでしょう。また、とりわけ高度成長以降に「新しい絵の会」が直面した問題として、子どもの生活の実態が見えにくくなったということがあります。ただしこれは同会の課題と言うよりは、ヴィジュアル情報の氾濫やコミュニティの崩壊といった大衆化した社会の問題だったのかもしれません。 造形教育センターの設立 「造形教育センター」は、一九五四年にバウハウスの創立者であり建築家のグロピウスの来日したことをきっかけに結成されたと言われていますが、正確には、その折にデザイン評論家の勝見勝の呼びかけにより、東京芸術大学で開催された『造形教育作品展』に出品したメンバーが中心となり、一九五五年に設立されました。このときの呼びかけ人は、勝見勝、高橋正人、小関利雄、川村浩章、熊本高工、小池岩太郎、武井勝雄、林建造、藤沢典明、松原郁二らであり、岡本太郎、村井正誠、桑沢洋子、豊口克平、瀧口修造らの著名な芸術家、デザイナー、評論家なども参加した活動としてスタートしました。蛇足ながら、「造形教育センター」という建造物が建てられたわけではなく、これは組織の名称です。  造形教育センターの主張と課題 「造形教育センター」の主張の主旨は、従来の美術教育を人間の視覚のすべてに関連するものとしてダイナミックに捉えたことにあります。そして、この発想によって、絵画のみならず、立体造形や建築、写真・映画等の映像文化なども造形教育として扱うべきことを主張しました。これは人類史を根源的に捉える普遍的な見方であると同時に、新しい時代の表現に理解を示す立場であったと言えます。 センターの功績としてまず挙げられることは、図工・美術教育にデザイン教育の視点を定着させたことです。図工・美術教育におけるデザイン的な要素は構成教育として、戦前にも見られたものですが、そこでは、感覚訓練など造形表現の基礎的部分として扱われる傾向がありました。これに対して「造形教育センター」は、造形活動を通じた思考形成やそれを通じた環境や生活の改善というデザイン本来のあり方を主張し、昭和三三年に中学校学習指導要領に初めて「デザイン」という文言が盛り込まれることに貢献しました。その後、指導要領の改訂の機会を通じて「デザイン」については内容の見直しがされています。 このように「造形教育センター」は、その主張を制度に反映させていくという路線により、戦後美術教育の基盤形成に関与してきたと言えます。しかしこのため、教育の制度疲労が指摘されるたびにその責任を問われる立場になったとも言えるでしょう。 戦後美術教育の三極構造とその意味 このようにして、創造美育協会、新しい絵の会、造形教育センターの三極構造が一九五〇年代の半ばに完成しました。各団体の理念は、創造主義、生活リアリズム、デザインであり、それは、表現主義、写実主義、合理主義と言い換えることも、あるいは便宜的に、民主主義、社会主義、資本主義と言ってしまうことも可能と思われます。 いずれにせよ、戦後という時代背景を考慮することなしには、この二つの団体を語ることは意味をもたないと思われます。新しい絵の会が当面したのは、東西の冷戦構造における民主的教育の擁護であり、「造形教育センター」に期待されたことは、高度経済成長においては、国家的な要請でもあったデザイン教育の確立であったと言えます。つまり、この二つの団体は、戦後の政治と経済のそれぞれの断面に接触していたと言えるかも知れません。 けれども冷戦構造があっけなく崩壊し、経済が産業経済から金融経済へと変態し、さらにその行く末が危ぶまれている今日では、すでに両者が問題視、または依存した下部構造自体が液状化しているようにも思えます。見方を進めるなら、両者が問い掛け、または超克しようとした「近代」は、私たちに自覚せぬうちに終焉し、時代はすでポストモダン状況になっていると言えるかも知れません。ポストモダンとは、近代そのものを形成した個人や個性という概念が、モノと情報の氾濫によって平板化され、記号に成り果てた社会だとも言えます。そこでは私たちは、時代に対する無力感に屈服し、生活のリアリティを喪失してしまうことが予感されます。これは「新しい絵の会」が鋭敏に告発した局面と同根でしょう。 一方、様々な意味でコミュニティの崩壊が指摘されている今日、私たちはある意味で、よるべのない自由を保持しています。ここでは、個人としていかにその自由を消費するかということが、ライフスタイルの選択というかたちで浮上しています。こちらは「造形教育センター」が時代に先駆けて気づいた視点あり、デザイン教育の本質的課題であると言えるでしょう。 最後に一九八〇年代以降に台頭した「造形遊び」を機軸とした「子ども中心主義」の教育観に、これらの団体がどのように対応したのかという問題が残存しています。今後は、この観点から戦後美術教育運動を検証することが求められていると思われます。  

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