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雨に濡れる宿場町・今庄(福井県南越前町)

【ふくいミゅ~ジアム:芦原温泉駅の むかし・今②】からの続き

さて、最後に訪れたのは、これまで一度も訪れていない今庄いまじょうです。ここは17世紀初めに成立した北陸道ほくりくどう宿場町しゅくばまちで、明治期以降は鉄道の町としても発展。街道沿いに並ぶ江戸後期〜昭和30年代の町家を見たくなり、迷わず途中下車。


雨の豪雪地帯にて

 この日はあいにくの雨模様で、しかも2月とは思えないほど気温が高い。でもホントは、福井県内有数の豪雪ごうせつ地帯の1つです。去年の今頃なら、きっと雪で真っ白だったと思う。
 まあ、天候ばかりはどうしようもないんでね・・・

 売店に店員さんはおられますが、駅施設としては無人で静か。外観は、宿場町を彷彿ほうふつとさせる落ち着いた雰囲気が👍!ただ、ここに降り立った乗客は私を含めて10人足らず。

『今庄宿しゅくって、そんなに知名度が低いの?』

と少し不安に。

一見、無人駅とは思えない

 駅舎内を探索すると、宿場町と鉄道の町・今庄の歴史を説明する「今庄まちなみ情報館」というスペースがあり、かなり詳細なパネルが展示されてて、一見の価値あり!

 駅の歴史をみると、北陸トンネル開通(1962年)以前は、旧北陸線の難所山中峠越やまなかとうげごえ」の急勾配こうばいを上って敦賀つるがへ行くために、後押あとおしの機関車を最後尾さいこうびに連結してたらしい。また、敦賀から峠を越えて到着した列車は、この駅で最後尾の機関車を切り離すので、つまるところ、全ての列車が停車する重要な拠点駅だったというわけ。

 今ではとても想像がつかないなぁ・・・👀

今庄駅と北陸本線の歴史の詳しい解説が

 もう体験はできないけど、25パーミルの勾配は当時の技術では相当キツかったんじゃないかと。今なら、北陸トンネルを通れば今庄から敦賀まで15分ほどなのに、当時は約1時間もかかったとか。う〜ん、人が集まって適度に滞留たいりゅうした頃の方が、まちが栄えていたとは、何とも皮肉な話だ。

【‰(パーミル)】
勾配の程度を表す単位。25‰は、水平距離1,000mに対して25mの垂直距離(高さ)を持つ勾配をいう。

技術が進歩して便利になるほど、まちは寂れていくのか

 パネルの手前には、昭和35年頃の今庄駅を再現したオーゲージのジオラマが鎮座ちんざしてます。地元住民が持っていた写真や、国土地理院の当時の空中写真を参考にしたというから、ものすごい再現性です、ホント!😲

蒸気機関車の方向を変える転車台もあったらしい

オーゲージ】
鉄道模型の規格の一つ。日本で一般的なエヌゲージHOエイチオーゲージよりも大きく、縮尺は1/45、軌道きどう幅は32mm。国によって規格が異なる。

 この記事を書くのに参考にさせていただいた、今庄まちなみ情報館の設置に携わった水村みずむらさんのサイトによると、駅のホームにリヤカーの「移動式蕎麦そば屋」があったというからビックリ。しかも、福井らしく蕎麦に大根おろしをかけた「おろしそば」だったと。ジオラマにはその様子も再現されてたのに、時間を気にする余りディテールに気づかず・・・しまったー。💦

 詳しい解説は、以下のサイトにありますので、こちらもぜひご覧ください。もし、現地でガイドさんが解説してくれていたら、きっと

『へぇ~!』『ほぉ~!』

とかうなりながら、今庄の歴史に感動してたんちゃうかな。

 余談だけど、1912年に東京・新橋~金ヶ崎かねがさき(のちの敦賀みなと駅)間で運行された欧亜おうあ国際連絡列車」を利用すれば、1枚のきっぷで東京からベルリンやパリなどヨーロッパに行くことができたんだって。おそらくその頃は、今庄駅もたいそうにぎわってただろねー。 

世界への玄関口・敦賀とともに栄えていたんだろうな


右に行くか、左にいくか?

 次の敦賀行きの電車まで、正味1時間足らずという厳しい時間の制約から、名残惜しさを振り切って駅舎を離れ、今庄宿の町並みを堪能することに。

 さて、今庄宿は伊勢や江戸に向かう北国街道ほっこくかいどうと、敦賀・若狭わかさに向かう北陸道が出会う場所で、江戸時代には参勤交代さんきんこうたいの宿場町として栄えたそう。実は鉄道が敷かれる前から(なんと、平安時代から!)、交通の要衝ようしょうだったんだって。

 さて、図矢印のように、駅から直進して突き当りを右に進んだ方が、色んな建物に出会えるとみて移動したけれど・・・

たぶん右折した方が建物が多いはず、と

 何気なく左側を一瞥いちべつした先に、立派な看板を掲げた町家があったので、早速ちょっと寄り道。江戸時代からの旅籠はたご大黒屋だいこくやを改修した「暮らしや」という食料品店でした。この日はあいにくお休みだったようで。

立派な家屋です

 道をはさんだ反対側にも、玄関や屋根のけたが朱塗りの立派な町家を見つけ、スマホを向けていると、おやっ?!
 屋根の上に鍾馗しょうきさん。なぜか、卯建うだつの根元に控え目に置かれているのが福井らしい?

普通は屋根の真ん中辺りにあったような・・・

 そのまた近くには、北善きたぜん商店という家屋も。横に立っている案内板には、御札場跡おふだばあと(北村善六ぜんろく家)と書いてあり・・・。
 1716年(享保元年)創業の、10代続く酒蔵だそう。現在、初代・北村善六ぜんろくの名前を屋号やごうにして、聖乃御代ひじりのみよといった各種ブランドの日本酒を製造・販売しています。

この日は人気ひとけがありませんでした

 江戸時代には、酒蔵でありながら金銀を藩札はんさつに両替する福井藩の「御札場」の役割も担っていたようですね。

【御札場】
江戸時代、流通貨幣として使用されていた金・銀を、福井藩札に両替するための施設。成り立ちは福井版の財政難が始まりで、福井藩第4代藩主の松平光通みつみちが福井藩でしか使用できない兌換券だかんけんの発行を許すよう幕府に掛け合い、1661(寛文元)年に日本で初めて許可を取得した。
福井藩の南端に当たる今庄宿では、旅人や商人が福井藩へ入る際に、金・銀を藩札に両替し、福井藩を出る時には藩札を金・銀に戻した。両替の際に発じる差益さえきを取ることで、福井藩の利益に貢献した。1730年から4代目として北村善六家が務めた。

YouTubeチャンネル「今庄宿散歩」より作成。

 ようやく進行方向を右に変えると、気になる洋館が現れます。地元出身の実業家・田中和吉わきち氏の寄付で、1931(昭和6)年に建てられた旧昭和会館。現在は、今庄地区公民館今庄分館で、2011年に国の登録有形文化財に指定されています。
 田中氏が創設した財団の拠点施設として、地元住民の婦人会・研修会などに利用されたり、1955(昭和30)年~74(同49)年までは旧今庄町役場としても活用された、界隈では珍しい洋館。

田中和吉氏は、能登物産・北陸製糸・日野川電気・今庄合同運送・福井土地建物
などの設立に関わり、地域の経済発展に尽力したそうです。

 地元の方なら、中に入る機会がたくさんあるでしょうが、3階にはホールも残っているらしく、当時の今庄の繁栄ぶりがうかがえる内部を、ぜひ見学したかったぁ。👀


1時間足らずの滞在では・・・

 昭和会館のすぐ脇には、脇本陣跡わきほんじんあとの建物。雨天でくっきりと写っていませんが、なかなか落ち着きのあるたたずまいで、こちらも中に入ってお茶でも飲みたい!そんな雰囲気でした。🍵

 脇本陣を横目に北西に歩を進めると、またまた立派な町家が!旧旅籠若狭屋が「手打十割 六助」というお蕎麦屋さんに変身。国の登録有形文化財に指定されているのですが、この日は不運にも定休日。😢

 少し歩くたびに立派な町家が連続して登場する・・・とても1時間足らずじゃ堪能たんのうできやしない!💢これは完全に私の準備不足ですね。

 今庄宿は、2021年に重要伝統的建造物群保存地区に選定されたばかりだけど、若狭屋や昭和会館といった建造物を活かして落語やコンサートを開催したり、集客の取り組みもやってるみたいなんで、次はそんなタイミングを狙って行こうっと。

堀口酒造の建物。代表ブランドはひさご

 あと、平日だったからか、お店がほとんど閉まっているのはちょっと想定外かな。休日の観光客を前提にした土日祝のみの営業なのか、たまたま私が訪れた日に定休日が重なったのか??

 調べてみると、たしかに土日のみ営業のお店も、あるにはある。だけど、北陸新幹線の敦賀延伸で、今庄への人の流れが変わる可能性は大いにありそう。将来的に、観光客の受け皿をどう充実させるか?という課題にも、目を向ける必要があるのかも。 

古民家れすとらん  土の駅 しげじろう

 サッとまとめるつもりが、かなりのボリュームになっちゃいました。それだけ、今庄は魅力のある資源が詰まっているんだと実感しました。

 長文になりましたが、最後までお読みいただきありがとうございました。

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