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「刹那」

私には、ウメちゃんと過ごした夏がある。

「これ、サクラちゃんに似合うとおもって」

おばあちゃんが一人でお店を回している古い喫茶店の隅の席。色づいているガラス窓はレトロなものだった。薄暗がりの店内でウメちゃんはあるものを机に置く。プレゼントだ。
「中身をみてもいい?」
勿論とにっこり笑った彼女の笑顔は、嘘がひとつもない。私の大好きな笑顔。
中身はクラランスのコンフォートリップオイルだった。私はそれをみて思わずうっとりした。コンパクトなサイズ感と、透明のガラスの中の青。
「わあ。とっても嬉しいです。ありがとう。」
私は化粧品を自分のお金で買ったことがないし、ましてやデパートに売っているようなきらきらとしたおとなのリップには、出会ったことがなかった。それに、リップにこんな色があるなんて(!)とても涼しげな色をしているそれはミントの香りで、私はますますます気に入った。
「私のおもう、サクラちゃんの色なの。だから、どうしてもプレゼントしたくて」
ウメちゃんは大好きらしい、さくらんぼの乗ったレモネードのストローをかき混ぜて、首を傾げる。嘘のない笑顔。

ある日、私を撮らせてほしい、と言ってから、私が大学の夏休みじゅうは一週間に一度、会うようになった。

「サクラちゃん、彼とはどう」
「びみょう、です」
ぱしゃ。遠くをみつめたまま視線が定まっていない、横顔。

「カレーすっごくおいしいです」
ぱしゃ。それがうつるのは滅多にないけど。笑顔。

「」
ぱしゃ。カメラをじっとみつめているのに目があっていないような。掴めない私。

ウメちゃんは私と話をしながら、不意に撮るので、時々撮られている、という感覚を忘れてしまう。そしてウメちゃんの撮る私たちは私の知らない顔が沢山あった。私が私をみることができないということ。
「サクラちゃんはカメラの前で嘘をつけないのね」
いつの日かウメちゃんはそう言った。私はその言葉の意味がよくわかんなかった。

薄くかたちの良い唇が、私の唇に重なるたび、素面の私だけが目をぱちぱちさせたりするのだった。私には彼氏もいるしウメちゃんにもそういうひとたちがいるのも知っていたけれど。
「ウメちゃん、酔ってるね、だいぶん」
「もー、ほんと、ごめんねえ」
いつもの嘘のない笑顔は少し哀しそうで、泣くことも少なくなかった。そんなふうにして、ウメちゃんは飲みはじめると、いつも以上に表情がころころと変わる。
「私のさー何がダメだったんだろ、ほんと」
ウメちゃんは愛に関して、絶対まっすぐだから、まっすぐすぎて歪んでしまったんだとおもう。だから、ある男性を五年間愛していたことを過去にしている。けれど。本人では、愛した、ことになっている。けれど。それはほんとうは現在進行形で。そしてそれによって生じたその傷を、他人とのセックスでごまかそうとしても、やっぱり傷を抉るだけで。結局お酒を沢山飲んでしまったり、して。
「だめじゃないよ、ウメちゃん。」
ウメちゃんは、ビールを飲んで、トマトチューハイを飲んで、またビールを飲んで、今度は焼酎を飲み始める。そして、私をじーっとみてつめて、唇を重ねる。

「…ミントだ。ねえ、アレ、塗ってくれたの!」

ウメちゃんはそれから私に何度もきすをした。一度だけ、普段はしないおとなのキスをしたのにはさすがの私も恋愛的な意味でドキドキしそうになった。

「サクラちゃん、また、ね」
私を最寄り駅まで見届け、ウメちゃんを乗せた電車が去っていった駅のホームほど寂しいものはない。私はしばらく駅のベンチで、ぼーっとするしかなくなる。また来週になれば会えるのだ。私は彼氏にも感じたことのないきもちになって、少し驚く。

夏休みが終わって大学が始まると私たちは隔週で会っていたのが、隔月に変わっていき、そして最近では三ヶ月に一度、一年に一度の頻度に変わっていった。

ミントの香りがする特別な色のリップを、ポーチの中でみつけるたび、私は、あの夏に触れてしまうのだった。

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餡子

きらきら醒めない悪夢たち
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