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『王子の狐』①

「おぅ、そろそろ戻ろうや。後、十分もしたら口演が始まってしまう」

 ちょっと会話をしていただけのつもりだったが、気がついたらだいぶ時間がたっていたらしい。
 昭雄と一郎が二人を迎えにきた。


「はーい」

 風音と梓は飲み終わったペットボトルと瓶をゴミ箱に捨てて返事をする。

「さっきの子も出ると言っとったな」
「前座って言ってたね。前座ってなに?」

「こういうイベントなどで落語家に限らず、演出家が出し物をする時は、ひとつひとつの演目だけではなく、一日全部を通して流れを決めるもんなんじゃ。そして、前座ってのは、その流れを盛り上げるために、出演者が気持ちよく口演ができるように最初に話をする人のことだ」

「補欠とか代打と一緒?」
「まぁ、ちょっと違うが、場数を踏ませるという意味では似たようなもんじゃな」

 荷物を置いておいた席に座ると、同時に開始五分前のベルが鳴り始めた。

「ほれ、何が始まるかな?」

 少しばかり愉しそうに、一郎が笑って言った。

『本日は、<<落語フェスティバル>>にお越しいただき、真にありがとうございます。今回のプログラムは“古い”、“堅苦しい”だけではない内容でお送りしたいと思っております。どうぞ、ごゆっくりとお楽しみください』

 アナウンスが始まり、落語には似つかわしくない、軽快なリズムの音楽がかかると、会場から「おお、そろそろ始まるぞ」と言うざわめきが起こる。

 期待で会場が静まり返ったその瞬間、小太鼓の音が鳴りだした。
 するするーっと、黒い幕があがり、そこには先ほど会った滝川左近が座っていた。

「「おおっ!滝川師匠の若旦那!」」

 もう彼は一部のファンに知られているのか、落語が好きなお年寄りたちは期待と興奮で叫び声をあげた。

 それを合図に、左近は客席の人たちに深々とお辞儀をする。
 三十秒はたっただろうか。ようやく、頭をあげた時には、彼の話を聞こうと、会場はすっかりと静まり返っていた。

「えー、私共の落語を聴いていただくために、皆々様にはこうして集まっていただいたわけですが、実を申しますと、公の口演は今日が初めてでございまして。中には「誰だ、お前は」と憤慨される方もいらっしゃるのではないでしょうか。そこで、僭越ながら自己紹介をさせていただきたいと存じます」

 よほど何度も練習したのだろう。緊張もせず、舌がよくまわっている。だが、早口というわけでもなく、耳の遠い人にも聴きやすいように意識しているのだろう。

「名は左近。滝川誠十郎を父に、滝川伸介を祖父とした、いわゆる代々落語の家系に生まれた世襲議員ならず、世襲落語家の卵でございます。『親の七光りで舞台にあがりやがって』と言われぬよう、精進していく次第でございます。これを期にどうぞご贔屓に」

 再びお辞儀をすると、会場から拍手が沸き起こる。
 だが、その喝采の中、小学生・中学生の子供はまさか、自分とさほど年の変わらない少年が出てくると思わず、ぽかーんとした顔で左近を見ていた。

「さて、“名より実をとれ”という言葉もありますように、覚えても一文の得にならない私の名前よりも、お客様に笑っていただこうという実の部分、つまり噺家は噺の内容で勝負しなくてはなりません。芸能の世界というのはまさに、弱肉強食。無駄な話が長いとそれだけで人気が落ちて、たちまち職を失ってしまう因果な商売でございます。この不景気のさなか、噺家もコストパフォーマンスを気にする時代になってしまいました」

 言いながら、会場を見渡し、お客さんの表情をうかがう。とぼけた言い方と仕草がつぼにはまったのか、年配の女性が友達とくすくす笑っている。

 頃合だ、と思った左近が持っている扇子を、手首のスナップだけで宙で軽く一振りする。

 それが合図となり、ステージ右側に設置されてあった白い布がめくられ、【王子の狐】と書かれた紙が現れた。

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