小説『インク』

 もう一文字も進めなくなってから、どれだけの時間が過ぎただろうか。ああでもない、こうでもない、と頭の中で役に立たない理屈を捏ね回し、来る日も来る日も無駄にしてきた。
 僕は小説家だ。初めて書いた作品で有名な賞を取り、有頂天になっていたのも、もう過去のことである。今や、少しの創意もない。抜け殻になった気分だ。最近は、全て投げ出して楽になりたいと繰り返し思うようになった。ひどいときは、あらゆる思考の結末がすべてそこに辿り着いた。
 先日、久しぶりに編集の方に合った。佐々山さんだ。彼は常に優しい人だ。僕がずっとこんな状態でも、変わらず熱心に対応してくれる。とても眩しい。眩しくて、その光の傍に居ると僕の無能さが浮き彫りになるように感じられた。佐々山さんの誠実な態度も、僕のいびつな捉え方の前では、僕の心を苦しめる要因の一つとなっていた。
 ふと、机の上のインク瓶を手に取る。中のセピアは、紙に乗せたときよりもずっと深く濃い色だ。
 このインクは、憧れの作家に貰ったものだ。僕が何度も熱心に手紙を送りつけていたら、あるときプレゼントしてくれた。特別に作られたもので、この世に一つしかないインクらしい。
 僕の固定された視界の中には、いつもこのインク瓶が在った。徒に万年筆を走らせる。ペンの先から原稿用紙に染み込んでゆくインクを眺めているのが、このところ唯一心が満たされる時間であった。インクが、僕が動かしたとおりに文字をかたち作り、色斑を生み出す。このユニークな美しい染みの存在が、僕を肯定してくれているように感じた。
 思うままに落書きされた原稿用紙を眺めているうちに、意識が重い現実に引き戻された。ずっとこのインクの色だけ瞳に映して生きていきたいと思う。ふと、僕の人生のことを考える。ひとりきりで家に籠もり机に向かい続けていると、往々にして大それた悩みに囚われてしまうものだ。そういうものだと頭ではわかっていても、心が沈んでゆくのは止められないのであった。
 これから僕はどうなるのか。ほんとうに、ひとつも書けなかったらどうしよう。今更こんな自分が再び外に出て働くのは難しいだろう。少し想像しただけで、胃に絶望が湧いてきた。気分が悪くなる。
 再びインクの瓶に手を伸ばす。インクは黙ったまま輝いている。
 この輝きを口から体内に入れてみたい、と思った。インクの味を想像してみる。苦いのか、渋いのか、辛いのか、甘いのか。確実に身体に異常をきたすだろうと頭で考えてみても、インクを飲むことについての興味は全く薄れない。瓶の蓋を回す。開けた瓶の口を顔に近づけると、黴のような強いにおいが鼻をついた。一瞬、決心が揺らぐ。インクは依然として輝いている。瓶の縁が唇に触れる。冷たい。
 少しだけ、瓶を傾けてみる。中のインクが触れる感覚はまだない。もう少し、傾ける。しばらく待ってもインクはやってこない。やっぱりやめようか、と考えたその瞬間、なまぬるい液体が口内に勢いよくなだれ込んできた。
 苦いとも渋いとも、何とも言えぬ味に、舌が、喉が、食道が、胃が、痺れた。僕の内臓たちが、今すぐ瓶を置いてそれを吐き出せと訴えている。めまいがする。今まで感じたことのないめまい。視界に入ってくる景色がいくつもの点を中心に渦を作り、ゆがみ、融合しはじめる。眼球の奥が熱い。もうだめだ、こわれる。重い頭痛が思考を支配する。いつのまにか瓶は手から滑り落ち、どこからか、床にぶつかる鈍い音がする。音。耳も変だ。気づいた途端、かすかにあった耳鳴りが轟音に変わる。めいっぱい、力の限り叫んだ。自分の声は聞こえなかった。



 どのくらい経っただろうか。狭い部屋に鳴り響く着信音で目が覚めた。僕の身体は仰向けで床に倒れていた。
 電話に出ようとスマートフォンを探す。横になったまま左右を見回しても見つからないから、起き上がろうと試みた。身体が硬い。全身がみしみしと弱々しく叫んでいる。やっとのことで、這いつくばってスマートフォンを掴めたときには、音は止んでしまっていた。画面に表示される日付に違和感がある。どうやら、三日ほど気絶していたようだ。
 着信の主は佐々山さんだった。こちらからかけ直す。僕が生きていることが分かると、佐々山さんはどうやらほっとしたようだった。元々は締め切りの確認のために連絡をとろうとしたが、僕があまりにも電話に出ないため心配になり、次に駄目だったら家まで突撃しようとしていたらしい。いやぁよかったよかった、と頻りに言っていた。ろくに書けもしない僕についてそこまで心を消費するとは、やはり真面目な人だ。
 そうだ、書かなければ。徒に三日も失ってしまった。僕は早々に話を切り上げて、机に向かうことにする。身体は相変わらず硬く、節々が痛む。しかし、頭はこれまでにないくらい調子がよかった。満ち足りているような感覚がある。
 万年筆を手に取る。紙にペン先を乗せる。次々に、あざやかな染みが原稿用紙を埋めていく。今度は落書きではない。一枚、二枚と紙を替え、滑らかに筆が進んでいく。気がつけば、ひとつ話ができていた。まるで夢のような時間であった。時計を確認すると、先ほど電話を切ってから数時間が経っていた。
 一段落着いたら、猛烈に腹が減っていることを思い出した。外に出る気力など湧かないため、ストックしていたカップラーメンに手を付けることにした。へろへろの足取りでキッチンに向かう。
 湯が沸くのを待っているうちに、ひとつの作品が書けたことへの喜びがじわじわと溢れてきた。もう自分には何もできないと思っていた。しかし、この暗闇のような人生に一筋の光が差したのだ。いや、久しぶりに一作書けただけなのに大袈裟だろうか。僕は、いささかはしゃぎすぎるきらいがあるようだ。そもそも、まだ誰にも読んでもらっていないのに。そんなことを考えているうちに、やかんが甲高い唸り声を上げた。

 佐々山さんは、きらきらした顔だった。
 「全て読みました。すごくいいと思います」
 こうもまっすぐに褒められると、心臓がむず痒い。曖昧な笑みを浮かべて「へぇ」と言ってしまう。この会話の中で、僕は終始ニヘラニヘラしていた。さぞかし気持ち悪い顔だっただろう。しかし佐々山さんはそんなことを意に介していない様子で、打ち合わせが終わると、少し興奮した面持ちで帰って行った。
 気がつけば、僕はまた机に向かっていた。なんと、次の話の構想が浮かんできたのだ。
 次回作。未来。
 数日前まで、そんなことは考えられなかった。しかし今は、夢中になって手を動かしている。僕は楽しかった。人生でこれまでにないくらい生き生きとしていた。あっという間に、また一つ話ができあがった。

 「面白かったです!」
 絶好調ですね、と笑う佐々山さんに対し、僕はまたニヘラニヘラしていた。しかし今回はだいぶ心が軽くなっていた。褒められてもあのむず痒さはさほどない。これが自信というものだろうか。
 ごきげんな佐々山さんの背中を見送りながら、僕はさらに次の話について考え始めていた。心が躍っている。僕の人生はまさに今輝いていると確信した。



 いつの間にか、一週間が過ぎていた。僕は今、頭を抱えている。書き出しは順調だったが、あるときから、思いつくもの全てに納得できなくなった。書いては止め、書いては止め、を繰り返していると、そのうち筆が動かなくなってしまった。
 まるで、万年筆のインクが切れたときのようだと思った。
 僕は机の上のあのインク瓶を手に取った。そういえば、この中身を飲んだ後に、僕はこれまで書けなかったものが書けるようになったのだった。
 まさか。このインクのおかげだったというのか?僕には到底信じられないし、信じたくなかった。そもそもそんなことはありえない。それに、ようやく僕の中に生まれはじめていた、きらきらした自信が、僕自身の力を拠とするものではないということを、考えたくなかった。
 インクは相変わらず輝いている。しかし今は、その輝きが不気味に感じられてしかたなかった。

 電話から聞こえる佐々山さんの声は陽気だった。なんでも、最新の二作品の評判が非常に良いらしい。
 現在の進捗が芳しくないことを伝えても、佐々山さんの調子は変わらなかった。あんなにすごいものを書けたんだからきっと次も大丈夫です、とのことだった。
 佐々山さんは、僕を買いかぶっているのだろうか。僕は複雑な気分だった。褒めてもらうのは嬉しかったが、あのインクの輝きが頭をよぎる。物語を書いたのは、僕ではないのかもしれないのだ。 

 さらに数日が経過した。僕は未だに一文字も書けずにいた。このままでは、少し前のどうしようもない僕に戻ってしまいそうだ。胃のそこから、焦りがじわりと広がってくる。
 インク瓶が視界に入った。
 インクが、僕の意識を捕らえようとしてくる。目を逸らしても、インクが、僕の思考の邪魔をする。心臓の鼓動が速くなる。自分の呼吸の音がはっきりと聞こえ、いてもたってもいられなくなってくる。
 ついに我慢できず、僕の左手はインクの瓶を掴んでいた。
 インクと対峙し、その暗い輝きをみつめているうちに、いつの間にか動悸は治まっていた。そして、僕はだんだんと、妙な気分になっていった。ふたたび、このインクを飲もうと考えていたのだ。
 このまま何もしなければ、何も書けない。書けなければ、僕はおしまいだ。インクを飲んでも、身体に異常をきたしておしまいになるかもしれない。前回たまたま無事だっただけで、次はないかもしれない。
 同じおしまいなら、書ける可能性がある方を選ぼう。僕は開き直っていた。僕自身の力など、もうどうでもよくなった。ただ生きるために、書ければいいと考えた。
 そして僕はインク瓶の蓋を回し、自らの口に沿わせ、天を仰いだ。たちまち、僕の視界は歪み、重いセピア色に染まった。

 目が覚めた。どうやら今回も、身体は無事だったようだ。
 ゆっくり起き上がってから、着信を確かめる。スマートフォンの待受画面に表示された日付は、記憶より二つ進んでいた。佐々山さんからの連絡は特に入っていないようだ。
 軽く食事を摂ってから、机に向かう。ペンを手に取るなり、書くべき文字が次から次へと頭に浮かんでくる。僕はただ、それに身を任せた。ひたすら手を動かしていると、みるみるうちに原稿用紙がインクで埋まっていった。
 書き終えると、僕は、少しぐったりとしていた。また一つ話が完成したというのに、今はその事実に、何の感慨もなかった。
 何はともあれ、また書くことができたのだ。これでよかったじゃないか。



 それから僕は、書けるまで書き、書けなくなったらインクを飲み、また書けるようになったらひたすら書く、という日々を繰り返した。
 僕にはもう、このインクなしでやってみようという気概はこれっぽっちもなくなっていたし、僕自身の力を信じるなんて、てんで馬鹿らしいことだと思うようになっていた。
 いつもご機嫌な佐々山さんに会うときは、あのニヘラ顔を貼り付けて対応した。特に問題はないようだった。

 今日は、もうそろそろ筆が止まってしまいそうな予感がある。しかし、大丈夫だ。またインクを飲めばいい。机の上の、セピアのインク瓶を取り上げる。
 インクの輝きは、以前と比べるとかなり小さくなっていた。はじめは瓶を満たしていたインクも、僕が飲んでは書き、飲んでは書きを繰り返しているうちに、どんどん減ってしまった。
 あとひとくちで、インクはなくなりそうだ。しかし、今の僕に迷いはなかった。瓶の蓋を開け、インクの最後の一滴まで、体内に取り込んだ。
 何度体験しても、全く慣れることはなかった。インクがもたらした違和感が身体中で暴れ回り、味覚も嗅覚も視覚も聴覚も触覚も、全てが使いものにならなくなる。
 僕は考える。これからどうする?最後のインクが尽き果てたら、お前はどうする?
 どうにもならない。書けなかったらおしまいになるだけだ。内側から脳を殴られるような痛みが、この思考を遮断する。
 それでも僕は、なんとか自分自身に集中しようと試みる。激しく襲いかかる不快の連続に、抵抗しようとする僕が居た。ほんとうは、このままおしまいになりたくなかった。ほんとうは、もういちどだけでも、僕の力で物語を生み出したかった。ほんとうは、ほんとうは……。
 皮膚の内側が煮えたぎるように熱い。ふたたび、脳に重い刺激が走り、何も考えられなくなる。苦痛に身を委ねるしかないまま、僕の意識は、薄れていった。

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