小説『ノート』前編

 「ふう」
 今日の日記を書き終え、千代はひと息ついた。
 表紙が淡いピンク色の、A6サイズのリングノート。クリームがかった白のページに、千代のまるっこい字がきれいに整列している。
 千代の部屋の本棚のいちばん上の段には、これまで書いた日記が並んでいる。大きさも、色も、厚さも、綴じ方も、様々なノートが十数冊。千代がその都度「かわいい!」と感じたものを採用しているから、不揃いなのだ。
 千代は使い始めたばかりの現役のノートを閉じ、歴代の日記たちの右端に差し込んだ。

 翌日の18時を少し過ぎた頃、千代は会社の入り口で、同期の鷹匠はるかを待っていた。
「おまたせ」
背後からの声に振り返ると、はるかが立っている。はるかは、肩に掛かるくらい柔らかそうな焦げ茶の髪を下ろし、白いハイネックに黒のタイトスカート、そしてやや大きめの鮮やかなオレンジのカーディガンを羽織っていた。さっぱりしたメイクはクールな顔立ちによく似合っている。
「お疲れ様。今日はどうする?」
「そうだ!ご飯の前に行きたいところがあるんだけど・・・・・・文具屋さん寄ってもいい?」
おっと、文具屋さんはまずいぞ、千代は思う。
「おねがい!今日のご飯おごるからさ!」
「う~ん・・・・・・」
「お寿司!!!」
「・・・・・・」
千代はしぶしぶ了解した。お願いが通って嬉しそうに歩き出すはるかを横目に、早くも少しだけ後悔していた。
 文具屋さん。すなわちノートとの出会いの場所。お店の知恵と工夫によって入荷・陳列されたあらゆるノートたちが、私を手に取って!とこちらに呼びかけてくる。少なくとも千代にはそう見えている。そう、文具屋さんは千代にとって、誘惑に溢れたキケンな場所でもあるのだ。
 さらに今、千代は日記として新しいノートを使い始めたばかりだ。このタイミングで別の魅力的なノートに出会ってしまうのは良くない。千代はいつも、日記用に新しいノートをおろしたばかりのときは、文具屋さん等ノートを販売している場所になるべく近寄らないようにしているのだ。
 しかし、もう文具屋さんに行くと決まってしまったからには仕方ない。極力ノートを目に入れないようにしよう、と千代は決心したのだった。

 はるかに連れられて到着した文具屋さんは、かなり大きいお店だった。1階が高級文具、2階が普段使いの文具、3階が画材の売り場になっているようだ。千代は早くも、先ほどの自分の決心が揺らがないかと不安になる。
 はるかは、近々退職されるお世話になった先輩へのプレゼントを探していた。じっくり選ぶため、品揃えが豊富なお店にしたらしい。
 プレゼントの候補は「いいボールペン」とのことで、千代はひとまず安心した。高級筆記具は1階にあるが、このフロアにノートは置いていないようだ。
 売り場をひと通り見終え、はるかは1本のボールペンをチョイスした。本体が青く、光が当たったところがキラキラと反射している。軸の下半分を回すと芯が出てくるタイプの、オフィスにぴったりな雰囲気のボールペンだ。
 はるかの目的も達成したことだし、もうお会計してお店を出るだけだ!と千代は安心した。しかし、はるかが、その先輩へのお手紙を書くための便箋と、自分が使うための筆記具も見たいと言いだした。千代の身体に再び緊張が走る。
 便箋は同じ1階で調達できそうだ。季節ものの商品が並んでいる一角があり、今はるかはそこで花柄の便箋を眺めている。しかし、ふつうの筆記具となると、2階にいかなければならない。2階には、きっとノートがたくさんあるだろう。どうにかして1階に留まることはできないものだろうか・・・・・・。そう悩んでいるうちに、はるかがこちらにぐんぐん近づいてきた。いつの間にか、お会計は済ませたようだ。
「プレゼントのペンは包んでもらうことにしたから、終わるまで2階行こう!」
 はるかは千代の腕を掴み、2階への階段を登り始める。結局、千代は言い訳のひとつも思い付かず、ノートが待っている売り場に到着してしまった。

 2階に足を踏み入れた途端、様々なノートやメモ帳が目に飛び込んできた。今の千代にとって、幸か不幸か、手書きフェアなるものが開催されていたのだ。「日記をはじめてみませんか?」「仕事のメモにオススメ!」など、わくわくする文言が商品とともに飾られている。千代はその場でうごけなくなってしまった。
「あれ?ノート見てる?じゃ私はペン見てるね」
 はるかの声が遠くで聞こえた気がしたが、千代の意識はもう、あるノートに釘付けになっていた。
 そのノートはまるで文庫本のようだった。シンプルなつくりで、色も白い。目が覚めるような白ではなく、少し温かみを感じるような白。商品自体は透明な袋に包まれているので、手前に置いてあるサンプルを開いてみる。
 他にも種類はあるようだが、千代が開いたのは罫線のない、無地のタイプだった。
 日記として今使っているノートには、3ミリほどの青い線が入っているが、無罫も良いかも……と千代の心によぎる。紙の手触りもたいへん滑らかで気持ちいい。いつも油性ボールペンで書いているが、このノートの紙は万年筆のインクとも相性が良さそうだ。これを機に、憧れの万年筆デビューもありかもしれない……。
 いやいやいや!危うくこのノートに心を奪われるところだった!千代はなんとか我に返る。返ったつもりになっている。実のところ、左手は今出会ったノートをずっと握りしめていた。ペンを選び終わったはるかに「そのノート、買うの?」と言われて初めて、千代はそのことに気が付いた。
「ちがう!買わないよ!!!」
千代は慌ててノートを台に戻す。
「日記帳!新しいの使い始めたばっかだし!それ以外にノート使わないし!買って使わないのもったいないから!買わない!!」
はるかはきょとんとしている。
「え?今日買っといて、今使ってるのが終わったら、こっちを使い始めればよくない?」
「それは何かさ……今のノートに申し訳ないっていうか……」
「え?」
「次のノートのこと考えながら買うのは!今のノートになんか申し訳ないでしょ!!」
「は?」
「そういうもんなの!!」
「はぁ……」
はるかはきょとん顔のままだったが、しばらくすると不敵な笑みを浮かべた。
「うーん、でも私だったら買っちゃうかもな~」
「ええ~!?」
「買い物ってね、出会いが大事だと思ってるの。今、この時、ビビッとくるもの出逢えた!と感じたんなら、それはもう運命と言っても大袈裟じゃない」
「う、運命……!?」
「そう。ときには、次回にしよう、と決めたことで、もう二度と出逢えなくなることだってある。それもまた運命……。ノートならそんなことにはならない、そう思っているかもしれないけど、このお店にはなかなか来れないでしょ?今日見送って、やっぱり欲しい!と思ったときに、すんなり手に入るかはわかんないよ?」
はるかの話しぶりは、いささか芝居がかっている。ちょっと楽しそうである。一方千代は、この演説をばっちり真に受けていた。
「そうか……運命かあ」千代は、台に戻したノートをもういちど手に取る。
「そうそう」はるかは満足そうに頷く。
「でも……やっぱり今使ってるノートに申し訳ないよ……。手元に新しいノートがあったら、私つい気になっちゃうし」
「その申し訳ないっていうのはよくわかんないけど、手元にあると都合が悪いなら、私が預かっておこうか?」
「え……?」
「今のやつ使い切るまで、私が持ってればいいじゃん。そしたら、とりあえず近くに置いておくわけじゃなくなるから、いくらかマシになるんじゃない?」
「えええ……?う~~~ん」
「大丈夫。勝手に使ったりしないよ。大切に保管する」
千代はノートから目線を外し、はるかの顔を見上げた。はるかの微笑みはとてもあたたかく見えた。
「わかった。じゃあお願いしてもいい?」
「もちろん!」

 帰宅した千代は、いつものように、寝る前に日記帳と向かい合っていた。今日のことを思い返す。
 文具屋さんを出た後、お寿司をはるかのお金で堪能しながら、千代は改めてノートの件のお礼を言った。はるかは笑った。はるか曰く「人に買い物させるのは楽しい」とのことだった。
 う~ん?もしかして、私はるかに遊ばれてたの?千代の心はちょっとフクザツになった。お寿司のおいしさが悔しい。
「千代は少し考えすぎなんだよ」はるかは笑って言った。優しい笑い方だ。「ま、いいところでもあると思うけど」
 そうは言ってもなあ、と千代は小さくため息をついた。今日のことをちゃんと日記に書くなら、新しく買ってはるかに預けたノートのことは外せない。しかし、それを今のノートに書くのはやっぱり少し気が引けてしまった。目の前にあるのはこのノートなのだから、それ以外のノートについて考えたり、意識を向けたりすることは、誠意がない行いであるように思えてしまうのだった。
 もちろん、ノートたちに心がある、と考えているわけではない。それでも、なんとなく千代の心はモヤモヤした。
 考えすぎかなあ。再びはるかの言葉が頭をよぎる。たしかに、私は少し余計なことを考えているのかもしれない、と千代は思った。大事なことは、今のこのノートに真剣に向き合って、ちゃんと日々の記録を書くことだ。そういえば、これまでは、ときどきサボってしまうこともあった。しかしいい機会だ。今日から、毎日欠かさず丁寧に記していこう。千代はそう決心したのだった。

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