川崎

無差別殺人の犯人は、僕と同じだったかもしれない



トレンドのトップに「KAWASAKI」という文字が目に飛び込んだ。


おぉ、ついにKawasakiが四気筒250ccのバイクでも発表したかぁ〜!?と思ったら、どうやらそうではないらしい。








川崎の岩崎も、秋葉原の加藤も、オウムの麻原も、僕からみたらそんなに遠くはない存在に感じた。



多くの人は、死ぬなら勝手に一人で死んでくれ。と思うだろう。


たしかに、知らん人の身勝手な動機で、大切な人を殺されたら、自分だったら気がおかしくなる。

自分にも起こりえるかもしれないと考えた瞬間に、勝手に死んでくれと思う。とても直線的な考え方ではあるけれども、間違ってはいない。





通勤通学へ向かう朝の時間、どこかで人身事故が起きた。

おーい、死ぬなら迷惑かけないところで死んでくれや。

と、軽い冷笑を匂わせた、味気ない文字がネットの海をぷかぷかと浮かんでいる。


いつも僕は、なんで一人で死ななかったんだろうと考える。




多分だけど、人は最後まで寂しがりやで、孤独を嫌う生き物なんだと思う。



不良がバイクに乗るのと、他者を巻き込んだ自殺や、無差別殺傷事件は近いんじゃないか。


とてつもなく寂しいんだと思う。認められたいんだと思う。どんな形であれ。


お前すごいね!とかそんな安っちいことじゃなくて、存在を認めてもらいたいんだきっと。俺はここにいるぞ、って。





そういう人たちは、びっくりするくらい同じように、家庭環境が悪かったりする。

親の頭が良かろうが悪かろうが、稼ぎが良かろうが悪かろうが、子供の性格や未来は、一瞬で親によって簡単に歪めることができるのだ。


結局何が大きな要因かというと、正しい愛情を受けて育ってきたか。これが全てな気がしている。


秋葉原の加藤の母親ははっきり言ってクソ親だ。

麻原の親は、なぜ幼い彼を盲学校へ送り、何年もコンタクトを取らなかったのか。

岩崎はなぜ実の両親に育てられなかったのか。身元確認を否定するのはどんな理由があるんだろう。どんなトラウマがあるのだろう。



こういう事件を見るたびに、あーーーーーーーーー、俺がこいつと同級生だったら、なんかできたかもしれねぇ...と思う。



ガキの頃はヤンチャして、パトカー呼んで鬼ごっこしてた友人も、今は立派な大人になっている。彼の親は僕から見て、子供に対してすごい愛情を注いでいると思うし(話聞く限りだが)、家族仲も良い。


一緒にパトカー呼んでた片割れは、たしか母子家庭だった。彼は現在身元不明だ。仲の良い友人は誰も連絡が付かず、仕事もやめたらしい。



なかなか過保護な親の元で育った、僕の人生1番の友人だった奴は、誰とも遊ばなくなった。小中高大ほぼ全ての友人と連絡を取っていない。LINEをそもそもインストールすらしていないらしい。



僕は、家庭環境が悪い中で育った自分と、現在そういう人生を歩んでいる友人の姿を、彼らに重ねては、親近感を覚えずにいられないのだ。




幸い僕は友人に恵まれた。

家にいたくないから、ずっと友人と一緒にいた。僕には友達がいたんだ。夜中に集合かければ、中学生だったのに何人も集まった。


人付き合いが苦手で、そういう環境に置かれてしまった人はどうなってしまうんだろう。



僕はたまたまそうじゃなかった。






逃げ込む先が、ネットやゲームなのかもしれない。

顔も見なくて良いし、相手に気を使う必要もない。けれど人との繋がりをギリギリ感じられる。孤独を騙すのにはベストなのではないか。


それが、欠落した愛情を補えるかといえば、答えは100% Noだと思う。

どんなに技術が発達しようとも、人と人が直接関わることによって生まれる感情や、愛情は、人がまっすぐ歩いていくためには不可欠だ。人が幸せと感じるには不可欠だ。





太田光についての記事を読んだが、ピカソの絵に出会ったと書いてあった。

人と人との直接的なコミュニケーション以外に、唯一取り得る手段があるとすれば、それは芸術だと思う。

絵画、映画、音楽など。

間接的であれ、人が生み出したアートは、人を救う力がある。人は負の感情をアートとして昇華できる生き物なんだ。



彼らは感情の行き場を、たまたま最悪な手段で『消化』してしまっただけに見える。


僕は、親にひどいことをされた時に、ものに当たるのは良くないし、後悔するから真っ先にギターに手を伸ばしていた。

(唯一ぶっ壊したのは、中1から中2まで使ってたガラケーなんだけど、今でもめちゃくちゃ後悔してる。写真見たいよう。)

ヘッドフォンを繋いで、音量マックスにして、歪みも何もかもマックスにして、鼓膜が破れるの上等くらいの勢いで、ただ適当にかき鳴らしてた。

もしくは、好きな音楽を爆音で聴いて正気を保っていた。



もし孤独を感じてるやつに、ギターとベースとドラムをポイッて渡したら、誰かをめちゃくちゃ感動させられるかもしれない。すげぇかっこいい音楽を作るかもしれない。

紙とペンを渡したら、すげぇ綺麗な絵を書くかもしれない。


例を挙げるならば、Billy Joe Armstrongだったり、Dizzee Rascalだったり。


アートで、人と人が繋がるかもしれないし、引きこもってることなんてなくなるのかもしれない。

余談だが、だからこそZOZO前澤がやってることは素晴らしいことだと思う。親のリテラシーが低いと、子供はなかなかそういった機会に触れることがない。




辛い時に僕は、友人と音楽に救われた。だからこそ23歳になった今でも、音楽は大好きで、聴くだけだが、人生の一部になっている。

友人に対しても、彼ら抜きでは僕の人生は成り立たなかった。

特に、一番辛い時に一緒にいてくれた地元の友人たちは、誰よりも一番恩返しをしたい人達なんだ。



もし、自分がいたあの教室に、しょうもないことで大爆笑しあえる友達がいなかったら。アホみたいにきつい部活で、文句言いながらも頑張りあった友達がいなかったら。



自分が社交的な人間じゃなかったら。

音楽にも出会ってなかったら。







もしかしたら、僕も同じだったかもしれない。




あの孤独を、たった一人で耐えろと言われたら、そんなの無理に決まってる。そしたら僕は、簡単に死というものに手を伸ばしただろう。



孤独というものは、普通の人からは遠いもので、おそらく死も同様に遠いもので、

けど

孤独を感じたことがある人にとって、死はびっくりするほど近く身近で、常に背後にいるんだ。そして他者でも自己でも対象になってしまう。



だからこそ、多くの人は

一人で死んでくれや〜
不良品が〜
ひきこもりは〜

と言えるのかもしれない。

僕は、そういうことを思う人たちが、別に悪とも思わないし、愛情受けて育ってるんやな!ナイス!と思っている。


ただ、世の中意見がそっちに偏るなら、孤独を無言で叫んで、死に飲まれた人が絶えない世の中なら、少しだけ見方を変えて見ようぜ!と虫の音ほどの主張をこうして吐き出している。

もしそれで、誰かの考え方がちょっぴりだけ変わるのであれば、誰かを救ってあげられるのかもしれない。誰かを幸せにしてあげられるのかもしれない。やり場のない死を減らすことができるのかもしれない。


何ができるかなんて、正直わからないです。

孤独を感じている人は、『辛い』『寂しい』と、声を出せる世の中になって良いと思う。

特に10代の頃は、親がいないと生活ができないからとても厳しいが、それをサポートする何かがあって良いと思う(サポートできてないから、野田市のみあちゃんのような事件が起こるわけで)


耐え忍ぶ美徳なんてクソ喰らえだ。


世界を変えようなんて、もう恥ずかしくて考えてもいないが、せめて自分の見る世界だけは変えたくて、書きました。

自分の無力さに苛まれます。




読んでくれた人ありがとうございました。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?