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浦島太郎【ショートショート&オマージュ】

 ある平日の事だった。

 男は仕事に疲れ、海を眺めていた。通勤する時、なんとなく反対方向の電車に乗り、終点まで来てしまったのだ。ぶうぶうと振動を続ける携帯電話は、駅のごみ箱へ捨ててきた。

 風が吹き、気配を感じる。

 なんとなしにそちらを見ると、砂浜に亀がひっくり返っていた。亀と言っても大きい。動物園のゾウガメと同じくらいのサイズだ。その亀がひっくり返り、短い手足をのろのろとばたつかせている。

 男はそこへ近づいた。すると男の驚いたことに、亀は言葉を発した。

「よろしければ助けてくれませんか」
「なんと」
「泳いでいるうち寝てしまい、起きたら打ち上げられていたというわけなのです。お礼は必ずいたします」

 男は腰にぐっと力を入れ、亀の甲羅を下から持ち上げた。見かけよりもずっと軽くて、亀はいとも簡単に動く。ごろん。亀は軽く会釈をして、感謝の意を表した。

「おかげさまで助かりました。約束通り、お礼をいたしましょう。わたしの背中へ乗ってください」

 ははあ、と男は考えた。これは有名な昔話と同じではないか。まさか本当に実在していたとは。

「さあ、早くわたしの背中へ乗ってください」

 ほんの少し迷った挙句、男は亀の背中へまたがった。どうせ職場には戻れぬのだ。両親はずっと前に死んでしまったし、恋人だっていない。この世界に居続けたって、良いことはない。

 気をつけるべきことと言えば、竜宮城からは出ないことだ。仮に追い出されたとしても、玉手箱を開けてはいけない。みるみるうちに年を取り、すぐに死を迎えてしまうだろう。

 何事も予習が大切なのだ。

 男はにやりと笑った。

 人類が培った知恵と英知を、いまこそ発揮すべき時だろう。

 亀は「ではいきますよ」と言って海の中へ潜った。男は不思議な感覚に襲われる。身体中が膜にでも覆われているのか、濡れるような感じはしない。普通に呼吸も出来たし、水圧に苦しむこともなかった。亀はぐんぐん加速して、どんどん深く潜っていく。地上の光はあっという間に遠のいた。

 とその時、目の前が突然輝いた。

 竜宮城だ。

「さあ着きました。あれが竜宮城です」

 竜宮城はぴかぴかと輝き、神々しさを漂わせていた。朱塗りの建物と、その周りに植えられた金銀さまざまなサンゴ。この世の光景とは思えない。

 いえ、きっとこの世のものではないのだろう。この世ではないどこか別の場所。男が連れてこられたのは、きっとそんな場所だ。

 竜宮城では美しい乙姫に出迎えられた。

 乙姫は亀を助けたお礼をひと通り述べると、頬の落ちるような料理やお酒で男をもてなした。周りでは召使たちによる華麗な舞いが続けられた。

 宴が深まると、おとぎ話にはふさわしくないようなことも行われた。まさに酒池肉林。この世の、いや、あの世のパラダイス。時間の感覚が溶けてしまうような体験だった。

 たまにふと、不安がよぎることもあったが、どうせろくでもない人生だったのだ。竜宮城では、一生かけても味わいつくせないほどの愉しい思いをしている。男はそう考えて、目の前の快楽に耽った。

 こうして、時計もカレンダーもない暮らしが続いた。何年続いたのかはわからない。

 しかし、物事には必ず終わりがある。始まりがあれば終わりもある。それは竜宮城でも同じだったようだ。

 ある日乙姫が「そろそろ帰られては」と言い出したのだ。乙姫との仲が、少し冷え始めていたからかもしれない。実際男は、乙姫以外の召使と陰で関係を持っていた。そのことが乙姫にばれたのかもしれない。
男が残りたいと反論しても、乙姫はまるで聞く耳を持たなかった。最後はとうとう、竜宮城の主たる権力を発揮され、男は外の世界へ帰ることとなってしまった。

「いままでありがとう」

 乙姫は悲し気に言った。しかし、別れることは心に決めたのだろう。目には強い決意が表れていた。

「それじゃあ」

 男が亀にまたがろうとしたところで、乙姫が言った。

「最後に渡したいものがあるの」

 差し出されたのは玉手箱だ。男が物語の中で見ていた通り、いかにも高級な質感を醸し出していた。

 ただ唯一違ったのは、玉手箱が二つあったということだ。大きな玉手箱と、小さな玉手箱。困惑する男を前に、乙姫は言った。

「わたしたちの思い出のしるしです。どちらか一つお選びください」

 男はますます惑ってしまう。はて、こんなことあったかな。あるいは、おとぎ話にもいろんな説があるから、そのうちの一つにこんなものもあったのだろうか。

 よし、ここは一つ無難にと、男は小さい方の玉手箱を選択した。大きい方を選べば、欲張りと勘違いされるかもしれないからだ。

 乙姫はそれを見て、男に注意を促した。

「箱の扱いには注意してください。決して開けてはいけません」

 言われるまでもないことだった。箱を開き、無理やり老人にさせられてはたまったものではない。その手には引っ掛からない。

 男は黙って頷くと、乙姫と別れの抱擁を交わし、亀に乗った。亀はぐんぐん加速すると、あっという間に海を上がっていった。何事も、終わりというのはあっけないものだ。男が感傷に浸る暇もないほどだった。

 やがて砂浜へたどり着くと、懐かしい景色が男を出迎えた。何百年と時が経っているのだろうが、砂浜は何も変わらず辺りに広がっている。きっともう、男が勤めていた会社も存在しないのだろう。

 ひとまず男は、乙姫からもらった箱を海へ投げ捨ててしまった。持っていてもロクなことはない。何かの拍子に開いてしまっては、大変なことになるからだ。

 傾向と対策。知識さえあれば、トラブルは避けることが出来る。こうして男の役に立ったのだから、かの物語の主人公も浮かばれることだろう。

 しかし困ったのはその後だ。なにせここは未来の世界。男は、自分が何をすべきかわからなかった。このままでは、衣食住さえままならない。

 悲しい習性と言ったところか、男が向かったのは、かつて勤めていた会社だった。もはや潰れてなくなっているかもしれない。ただ、他に行く当てもなかった。

 内ポケットに財布を入れてあったので、電車には乗ることが出来た。

 未来の世界で昔の現金が使えるとは。

 男は違和感を覚えた。電車の中、外の景色が頭の記憶とそれほど乖離しない。それどころか、まるで同じではないか。

 男の疑念が確信に変わったのは、会社へたどり着いた時のことだった。

 会社の外観が、全く変わっていなかったのだ。遠くには、ビルから出てくる同僚の姿があった。ちょうど昼飯時なのだろう。

 無断欠勤を咎められてはいけないと、男は反射的に身を隠した。そして、そのまま電車へ飛び乗り、海へと引き返した。他に行く当てを思いつかなかったのだ。

 すると亀が「こんにちは」と男を出迎えた。全てお見通し、とでも言うように。

 しかし男は、なりふり構っていられない。亀に向かい、こう懇願した。

「竜宮城へ連れて行ってくれないか」
「それはもう、無理なお願いです」亀は横に首を振った。
「そこをなんとか」男は食い下がる。
「なんでもしますか?」
「なんでもします」

 そうですか、と亀の瞳は怪しく光った。

 差し出されたのは、玉手箱だった。男が海へ投げ捨てた、玉手箱だ。それを亀が、男の眼前に差し出してきたのだ。

「この箱を開いてください」
「しかしこれは、姫が開けるなと」
「あの場所へ戻るには、玉手箱の中身が必要なのです。もちろん、無理強いはいたしません」
「開けるよ、開ければいいのだろう」

 男は勢いに任せ玉手箱を開いた。会社に居場所がない以上、この世界に居続けることはできないのだから。

 煙が男を包み込む。男は万一に備え逃げる準備もしていたが、それを行動へ移す暇もないほどだった。煙はあっという間に男を包囲し、その姿を覆い尽くしてしまった。

 あとはもう、男が知る物語の通りだ。

 男はみるみる年を取ると、あっという間に老人になってしまった。

「どうして」

 男はうめく。

 亀は感情を込めずに言う。

「最近は、こうでもしないと開けてくれませんからね。傾向と対策、こちらの方が一枚上手だったということです」

「ここまでしなくても」
「楽しいことがあれば、反動があるのは当たり前です。第一、乙姫様のことを言いふらされても困りますしね」

 亀がそう言い終わる頃、もはや男はからからの塵になり、この世から姿を消していた。

「乙姫様の男遊びにも困ったものだ」

 小さく風が吹き、男の塵は辺りへ飛び散る。亀はそれを見て、小さくため息を吐いた。

「全国の海辺で、巧みに男を誘い込み、ひっかえとっかえポイ捨てしてしまうあの悪癖。浦島太郎という若者相手に味をしめて以来、かれこれ千年以上も続いている。毎度使いに出されるわたしはたまったものではない」

 亀はそうぼやき終えると、海の中へざぶんと潜ってしまった。次の男を探しに、別の浜辺へ向かったのかもしれない。

 亀が去った砂浜には元通り、静かな景色が広がっていた。

(了)


―――
あとがき
これを機に『浦島太郎』を読み返してみました。何度考えても、玉手箱を渡された理由がわかりません。(おじいさんになったあと鶴になり、乙姫さまと再会できてハッピーエンド、という説もあるようですが)

ただ、理由がわからないオチも良いですね。いろいろな解釈の余地があって、なぜか強く惹きつけられてしまいます。

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