正義(短編小説)
ひと気のない夜道を歩いていると、女性の叫び声が聞こえた。
顔を上げ辺りを見渡す。道路を挟んで向かい側に、男から逃げる女性の姿があった。声の上げ方が尋常ではない。事態は差し迫っているのだろう。
申し訳程度に設置された信号が赤く灯っているが、夜の田舎道に、車の気配はまるでない。薄暗い道路がどこまでも長く、地平の彼方へ延びている。
ここで見知らぬふりをすれば、きっと女性はひどい目に遭うだろう。ぼくは意を決すると、地を蹴り道路へ踏み出した。
が、その瞬間、背後から強い声を掛けられた。
「ちょっと待ってください」
立ち止まり振り向く。
後ろには、やけに線の太い男が、腕組みをして立っていた。
「信号、赤ですよ」男は腕組みをしたまま言う。
「あそこで女性が」ぼくは遠ざかる女性を指差し言った。
甲高い悲鳴が夜空に響く。周りには民家もなく、ぼくらの他に誰もいないのだろう。助けを乞う女性の声は、夜空にむなしく消えていく。
「決まりは守らなければいけません」
「そんなこと言っている場合ではないでしょう」
「決まりは決まりです」
ぼくが駆け出そうとすると、男に強く肩を掴まれた。
「事故に遭ったらどうするつもりですか」
「事故?」ぼくは左右を見渡す。「車なんてどこにもない」
「わたしがしているのは、原則論です。急に車が来る可能性もゼロではない。あるいは、見落としだってあるかもしれない」
「そんな馬鹿な」
「もし車に轢かれれば、あなたはケガを負います。運転手も社会的ダメージを受けます。自分はおろか、他人を巻き込む危険性があるのです。決まりを守ることは、自分や他人を守ることでもあるのです」
「いいから行かせてくれ」
男の手を払いのけ進もうとするが、掴む力が存外強い。うまく振り払えない。そうする間にも、女性の悲鳴は響き続ける。先ほどよりもさらに激しく、そしてヒステリックに。言葉にならぬ言葉が、遠い闇から届いて聞こえる。
「行かせてくれ」
「決まりは決まりです」
男の意志は石より固く、譲る気はない。
女性は男に捕らえられたのかもしれない。助けを求め発せられる声は、夜の静寂に溶け始めていた。
「あと少しです」
ぼくの肩を掴んだまま、男は言った。
女性の声は徐々に消え入り、夜の景色に同化し始めていた。
一秒が長く感じられる。まだか、まだか。男の正義に屈したぼくは、祈るような気持ちで信号の灯りを眺めていた。
やがて信号が青に変わる。
しかし、もはや女性の声は途切れ、辺りには秋の夜の静寂が戻っていた。鈴虫の優雅な鳴き声と、稲穂を揺らす優しい風。きっと、女性は助からなかったのだろう。
「残念なことでした」
男は眉を下げ、さも悲しげに言った。
夜の風が再び吹く。
ぼくは小さくため息をつくと、誰もいない無人の道路を、静かにうつむき歩いて渡った。
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