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たらこたらこ

つぶつぶたらこ。たらこを食べたわけではない。何かを書こうと思ったら、頭の中でたらこの音楽が流れ始めたのであった。音楽は急に始まるし、いつの間にか終わっている。逃しているのだろうか、心を軽くする作用なのだろうか。ヘッダーの写真も通りすがりのアンテナがカッコよかったから撮っただけで、内容に関係はない。

逃しているかどうか気になった、というのも、今日小学3年生の女の子と小一時間遊んで(それはそれは汗だくで全力で遊んだ。)、その子が服のタグを手の親指の付け根あたりにこすりつけるクセがあった。頻繁に擦り付けるから付け根はかさぶたになっていた。何かを逃しているのだろうと思った。子どもは逃げ場がない。
私も子どもの頃は手首を執拗に捻って痛みを与えるというクセがあった。捻らないとムズムズして、鉛筆を持って文字を書いたりできなかった。いつの間にか捻るクセは無くなった。我慢していることにも気づかないドロドロの期間。元々の溜まる原因を取り除かないと、逃しても逃しても焼石に水なのだろうが、原因には無自覚のまま、今もわからないまま、逃す術が増えていくことで緩和した感じ。

子どもはおしゃべりがわちゃわちゃちゃしている。じっと聞いていたら勝手にわちゃわちゃとしゃべるタイプの子で、わちゃわちゃを私なりに再構築して打ち返すと、その再構築は正解だったり不正解だったりした。その子のわちゃわちゃをできるだけ受け止めたいと思った。あと他に私にできることは特にない。子どもに対する時も大人に対する時も同じで、相手に乗り移り作戦。私は子どもになりたいし、アホを上回りたいし、勝負は真剣にしたい。

「帰りたくない」と言う子どもに「でもお母さんと約束したんでしょ、帰らなきゃ」と正論な声かけをしたけど、もっと「じゃあずっと遊ぼう」とか言ったらよかった。そのほうが、すんなり帰れただろうという気がする。その子はもう一回、もう一回と遊びを引き延ばした。管理責任のボールをこちらが持ってしまったことで「帰らない」という楽しい遊びが発生していた。ボールをその子に持たせても悪い結果にはならなかったろう。あなたが帰らなくても私は困らない、あなたが困るだけ、の状況だった。
管理責任のボールを持ち間違えると、モヤっとして体が反応する。自他の境界が曖昧になっているのが気持ち悪い。あなたの責任、私の責任。日本人的感覚だと、子どもへの対応としてのそれは殺伐として見えるだろうけれど。
実は子どもの時から、境界を越えてこないで、と思っていた、かもしれない。言葉にならなかっただけで。
なんでこんな簡単なことがわからないのだと思っていた。私の気持ちは私から見てとても簡単で明白なのに、どうしてわかってくれないんだ。そんなの、ああ自閉的だ。

帰り道、孤独だった。じっくりと。途方に暮れて、ビルの屋上の、もしくは屋上の上にあるクレーンについている赤い光(航空障害灯)を見て、あの光をつい見てしまうクセがあるなと思った。つい見てしまう、してしまうクセ、で構成されている私。右左、右左ペダルを漕いで帰る。

今日の出来事。仕事した。子ども食堂で子どもと遊んだ。そのあとお茶会に参加した。

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