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大野一雄さんの舞踏を見ながら考えたこと、テクニック・構成でなく魂・命・霊が大事であるということ

今日は、YouTubeで「舞踏」と入れて出てきた動画を見ていました。たくさん見ましたが、ピンとくるものはほとんどありませんでした。最後に、大野一雄さんの動画を見て、やはり大野さんの踊りはしっくりとくるなと思いました。この動画は過去に何度も何度も見たものですが、やはり今でも好きです。

他にもこのようなものも。

この動画の中で大野さんが語っておられることを書き出してみました。

テクニックを用いる前にね、人間の魂の問題が、命の問題が、霊の問題があるわけですよ。そういうものをね、例えば踊りを作る時にね、そういうものをね、いつのまにか用いて踊りをやると、そしていつの間にかその、肝心なことがなくなっちまって、そしてテクニックだけが先行していくような、踊りてのはさ、なんのためにそんなことやるのか、俺らはテクニックで生きてるわけじゃなし、むしろテクニックはね、使えば使うほど、大事なものは蓋をされて、大事なものがどっか脱落していくということについて、やっぱ体験してますからね。死んでからもテクニック構成で生きていくわけじゃないから、死んでいくわけじゃないから、私はテクニック、構成ってなって生きそうなものは押しのけてね、ひたすら魂の願いのようなものをやっていきたいと思ってる。

何を教えるの、芸術を教えるなんてことはできっこないでしょ。一般的な常識じゃなくって、芸術は教えるもんじゃなくってね、わたしの考えじゃ、人間が、人間の中から、生み出されるように、生み出されるものが私は作品だと思って、やっぱる踊りをやることによって、教えられたんだろうね。私がこうしてこうなったっていうのは、踊りをやりながら、自然から、踊りから、教えられたんです。命が踊ったから、命から教えられたんだ。生きて、生きて、生き生きとしてなきゃ。

特にテクニック、構成の前に魂、命、霊の問題があり、それが大事だとおっしゃっていて、本当にそのことが最も大事なエッセンスなんだろうと思います。

「ひたすら魂の願いのようなものをやりたいと願っている。」

この感じは、上の一つ目の動画、「愛の夢」の踊りを見ても、わかる感じがあります。今日、たくさんの舞踏の動画を見ましたが、結局の所、多くはテクニックと構成にこだわっているという事と、どう見られるかを計算した上で作られたものだと言うこと、それと奇を衒うような演出などが目についてしまい、見ていてはっとくるようなものが本当に一つもないということに、むしろ驚いたわけです。

そう言えば、今日のTwitterで最上和子さんがこのようにつぶやいておられました。

人類がこれだけの知の遺産を積み上げてきた以上、論理や構造なしで原初を実現するのは不可能だと思います。身体だけやってればいいということはない。ただひとりで何もかもは出来ない。この分厚い層を通っていくのは。私の担当は身体だということだと思ってます。

アフォーダンスが流行った時、そういう関係の本を少し読んだけど身にならなかった。読んでる時は「ふんふん」とそれなりに面白いのに、読み終わるとすっかり忘れてしまう。なぜなのかと考えたら、それなりに面白いけど強度がないからのようだ。私にはそういう本が多い。いくら内容が良くても強度がないと身にならない。単なる知識的なものだと忘れる。

この中で、強度のある論理と構造を、自ら探求し、理解したうえでないと、身体で原初を表現することはできないとおっしゃっています。

たしかに、身体を支えるだけの強度のある論理と構造、ヌーソロジーでいうならば、それはカタチということになるでしょうが、それらがなければ、結局はうつろな身体で、構成だけをいじくり、テクニックで奇を衒うような、アクロバットのような、見世物のような体操にしかならないと言うことなのだと思うのです。

僕自身、若い頃に何度か「舞踏」と言われるものを見ましたが、正直一度もピンときたことがありませんでした。それは今でもほとんど変わっていないのだということです。

唯一、大野一雄さんの踊りには救いを感じますし、今最上さんの稽古場で稽古させていただきながら、ここには舞踏をする意味があるということを感じている訳です。たしかな足取りと言いますか、何をしていて、どこに行こうとしているのか、ちゃんとわかっているからこそできる質というものがあるのだと思います。それが最も大事なものなのだということは、大野一雄さんの言葉にも通じると思います。

そんなことを考えていたら、たまたまこちらのピアニストの動画を見ました。「愛の夢」を弾いておられます。

これを見て、鳥肌立ちました。この若いピアニストの内側で何が起こっているのか、表情や、口の動きなどから、彼女の身体の内側でプラーナが沸き起こり、そのエクスタシーを感じながら弾いているのが伝わってきます。それは舞踏そのものと言ってもいいかも知れません。まさに内発の踊りですね。

テクニックや構成にこだわっていたら、これは起こりません。内発のエネルギーの爆発であるとか、プラーナの流れを感じながら、呼吸でそれを制御しながら、鼻の後ろ側にあるエネルギーの通り道を通過させながら、小脳に響かせながら、第三の目や頭頂にもプラーナが流れ込んでいるはずです。それは至福とも言いますし、たぶんサマーディーにも通じると思いますし、その時の身体はアムリタで満たされているというような表現もできるかも知れません。

これはちょっとしたゾーン体験であると言ってもいいのかも知れません。ヌーソロジー的には奥行きに入っていると言いますか、時間、空間を超越しているとも言えるのではないかと思います。

一度、このピアノの音で動いてみたいなと思いました。近い内にやってみようと思います。(o^^o)


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