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「凱旋」で喧嘩してんじゃねーよ:川村文乃「凱旋」騒動まとめ

はじめに

5月14日に行われるアンジュルムの愛媛公演をめぐって、ちょっとした騒動が持ち上がっている。

自分は最近ほとんどTwitterにいないので仲間内の伝聞で知ったのだが、何でも高知県出身の川村文乃さんの「凱旋」企画を愛媛で行うことを呼びかけるアカウントがTwitter上で立ち上がったというのだ。残念ながらそのアカウントの元ツイートは既に削除されてしまっているのだが、

①高知県出身の彼女の「凱旋」を愛媛でやるとは何ごとか
②高知と愛媛を一緒にするのは地元の人に失礼だ
③他の川村ヲタに十分に相談のないまま勝手にやるな

などの異論が噴出し、すっかり炎上案件になってしまった。個人的には様々な論点を孕んだ興味深いケースだと感じたので、最近流行りの「まとめnote」形式に則ってヲタクの様々な反応を引用しながら、あれこれと論じていきたい。

自分の考え

まず最初に、自分自身の考えを述べさせていただきたい。自分は上記の①から③であれば、主に①にかかわる違和感をこの企画を見た時に感じた。たとえば自分ならばこれを「凱旋」企画とは名付けず、川村文乃「四国上陸作戦」とでも名付けるだろうな、と思ったのである。イメージとしては第二次世界大戦末期の「ノルマンディー上陸」のあれで、まだ「ベルリン陥落」までは至っていない感じのイメージである。そして自分が何故そう感じたのかについてはヲタ友の林拓郎さんが見事に言語化してくれて、曰くそのほうが「この先高知公演を目指す」という物語性をグループとヲタクが引き続き共有できるから、である。アンジュルムというグループの永続的な盛り上がりを考えれば、どう考えてもそちらの方が得策ではないだろうか。連合軍がベルリンに辿り着くまでは、まだまだ士気を維持しなければならないのだ。

そんなわけで、自分がもし件の企画者に相談されたならば、そのように意見を述べるだろうと思う。ちなみに②については自分が口を出すことではないと思っている。これは実際に高知や愛媛に住んでいる人が口を開ければいいだけで、部外者がこれを錦の御旗として使う「代弁者スタイル」というやつであり、往々にしてその人が抱えている他の何かを正当化するための方便として眉に唾をつけて聞いた方がよろしい。また③については、企画者が「無能」なのか「傲慢」なのかという問題がある。「傲慢」は罪だが「無能」は別に罪ではないからだ。つまり企画者の不手際が単にその「無能」に因るものだとすれば、周囲は「それでは上手くいかないぞ」とあれこれと助言をすればよいだけである。無論、先方がその助言に聞く耳を持たないようであれば企画者の「傲慢」である可能性は十分に出てくるわけだが、事そこに至らぬうちに企画者の「無能」を頭ごなしに糾弾するのは、逆に「傲慢」の罪を問われて然るべきだと思うのである。

そんなわけで、件の企画者に対して何らかの反対意見を述べること自体に冠しては、自分は全く異論がない。そもそも自分も「上陸作戦」の方がいいと思っているからだ。ただし、今回の件についての自分の意見にしても、それが絶対であるとは思っていない。それはあくまで現時点での自分の知見に基づいてそう思っているだけであり、新たなインプットがあり、今までと異なる脳神経の繋がり方が起これば、そんなものはいくらでも変わりうるからである。

そして、そうした可塑性を賭金にして「議論」という営為があるとするならば、自分が問題だと思うのはあくまでその際の「構え」である。これに関しては全ての人間が共有していなければ何も始まらないため、自分はそれを厳しく問うことにしている。これが今回の記事の主題であることを、まず断っておきたい。

心理的安全性という必須与件

さて、まず「構え」の話である。これはこのnoteで何度も用いている言葉を使えば、その人が「心理的安全性」を持ち合わせているか、ということに尽きる。つまり「誰かに自分と異なる意見を言われたとしても、自分自身が否定されたとは考えないだけの自己肯定感」である。これは言うまでもなく「誰かに何を言われても、自分の意見を曲げない頑迷さ」のことではない。「自分の意見」と「自分自身」をきちんと峻別することで、「場合によっては自分の意見を変えられるだけの柔軟さ」のことなのだ。そして一旦この構えを習得すると、二種類の人間の存在を自然と理解できるようになる。一つは、たとえ自分とは異なる意見を口にしていたとしても自分のことは決して否定しない類の人間であり、もう一つは、たとえ自分とは意見が同じだとしても、個人的には絶対信頼できない類の人間である。それが何故かといえば、「心理的安全性」のない人間は自分と異なる意見を持つ人間を必ず頭ごなしに否定するからである。

Twitter上ではそれが実に端的にあらわれる。たとえば引用リツートというものがあるが、初対面の人間に対して敬語も使わずいきなりタメ語で否定的な引用リツイートをするような人は、まず例外なく「心理的安全性」に欠ける。そしてそういう人はとても多い。その意味では、自分が最初に目にしたffのヲンノジさんのツイートは、今時ではとても珍しいものに感じたものである。

何故初対面の人間に敬語で話しかけることが重要かといえば、それが相手をリスペクトすることで、対話を続けるつもりがありますよ、というシグナルになるからである。逆に言えばそれをしないということは対話を拒否するぞというシグナルであり、何故そうするかと言えば反論が来て自分の心理的安全が脅かされるのが怖いからだ。その際、本人の意識レベルからは「こんな奴とは最初から対話をしても無駄だからそうした」といった物言いが繰り出されることも多いが、それは本人の無意識レベルの怯えを覆い隠すための防衛機制でしかない。そしてそのことは、その人自身に他人と対話する資質が欠如していることを示すシグナルになってしまうのである。

その点、上記のヲンノジさんのツイートはさすがはアンジュルムのヲタクだ、と自分は感じたものである。「互いの心理的安全性に基づいて言いたいことを言い合う」という営みはとてもアンジュルム的だからだ。ただし「アンジュルム的」という意味では少し惜しい部分もある。林拓郎さんの言う「Yes, and」の精神でいえば、相手の意見に反対するだけではなく「愛媛公演を盛り上げたい」という共通目的に基づいた対案を提示するのがベストであり、ヲンノジさんのツイートにそれは見られないからだ(この点については、林さんご自身の書かれた文章を読んでいただければ幸いである)。

だが、その点については自分は偉そうなことは言えない。そうであるなら、自分がまず「『四国上陸作戦』にしてみたら?」と提案すればよかったからである。もっともそうしなかったのには理由はあって、要は件のツイートに乗っかっている引用が全てヲンノジさんのようなものだったら何の問題はなかったのに、という話である。ところがそうではなく、自分があの引用リツイート群を読み始めた時、まともな人間の形に見えたのはヲンノジさんのものだけであったのだ(もっとも読み進めればまともな人間もいたのかもしれないが、漂ってくるあまりの瘴気に頭がクラクラして「そっ閉じ」してしまった)。そんな中で自分が何らかの「提案」をしても、識字率の低い人外をさらに呼び寄せる呼び水になってしまうか、ひょっとしたら自分が人外どもに噛みつかれる危険性もあると判断した次第である。

「筋のよい」分断

さて、そう考えるとなるべく心理的安全性の高い人が主導権を握るコミュニティでない限り、「Yes, and」のコミュニケーションは成立が難しいのではないか、という話になる。そしてそういうコミュニティとはまさにアンジュルムということになるわけだが、ヲタクの方はなかなかその境地に達してはいない。

もっとも、それはそれで仕方のないことだと思う。アンジュルムというグループがそれだけの希少性を持つからこそ、アンジュルムのようではない人々の「推し」たりうるからである。前述の通り「無能」は罪ではないのだから、「アンジュルムのようではない」という無能を責め立てても仕方がない。だが折角なのだから「アンジュルムのようであろう」とする努力だけはすべきではないのか。どうもヲタクを見ていると、そんなことは微塵も思っていない輩が結構存在するように思えるのだ。つまり自分は一切変わらずに、ただ他人に対して「アンジュルムのようであれ」と押し付けるような輩ということである。何故お前のような人外が座りしままにBIG LOVEの恩寵を受けられると思えるのか。これは明らかに「傲慢」の罪に問われる案件であろう。

そんなわけで、自分はこの騒ぎが勃発した時点で、これは到底ヲタクには収拾つけられないだろうな、と感じたものである。そして渦中の川村文乃さんは、ファンの動向に鋭く目を配ることで知られている人だ。これは彼女が出てきて一旦お開きになるケースだなと予想し、それは案の定的中した。

3年前に室田瑞希さんの卒業が決まった時、アンジュルムの大激動に耐えられなくなったヲタクが無駄に騒いだことがあったが、あの時の川村文乃さんがかなり強い言葉でヲタクを牽制していたことを考えれば、この3年間での彼女の成熟は目覚しいものがあると思う。それにひきかえヲタクはまるで成長していない…というわけだが、0を1にするには1を10にするのに比べて膨大な時間がかかるのだから、これまたそれを責めても仕方のない「無能」案件ではあろう。

とはいえ、さすがにヲタクの間から内省というものも生まれ、0が1になりつつある明るい兆しをAkariさんの上記ツイートからは感じられる。まずは自分の今までの行動や思考を改める/そのことで今までの自分が否定されたように感じないだけの心理的安全性を持つことが、全ての大前提である。

だが一方で相変わらず0どころかマイナス値を更新し続けているようなのもいる。下記は件の企画アカウントが企画を取り下げた際のツイートにくっついていた引用リツイートであるが、上のAkariさんのものとは似ても似つかない惨状である。

これを見た時、自分は思わず爆笑してしまった。これぞ「おまゆう」案件である。何故「まずは自分一人で出来ること(この場合は「まさに川村文乃さんに余計な気配りをさせるような余計な難癖をやめること」)」をしないで、ひたすら他人に責を求め続けるのか。「責任能力に欠ける」とはまさにこのことである。だが、これも結局は自己肯定感があまりにも低いがゆえに「自分の行動を改めること=身の破滅」と思い込む無意識が防衛機制を作動させているのだろう。哀れな生き物ではあるが、その存在は公共的に有害なものである。そしてここまで拗れてしまっていると、これを矯正するには相当なカウンセリングコストがかかることを考えると、人里離れた山の中へと駆逐する以外にはないだろう。

とはいえ、この頃になると上記ヲンノジさんのようなエールも増え、ようやく引用リツイートに人の形をしたツイートが並ぶようになってきた。自己肯定感の高い人がそれほど多くはない以上、相手が考えを改める時には「それを賞賛する」という「好子」を与えて、その行動を強化した方が良い。ところが件の薄気味悪い愚痴垢の行為は、相手の「考えを改める」という行動を弱化する「嫌子」になってしまっており、相手が自分の望むような行動をとる可能性を狭めてしまっている。もっともそれだけなら自分の首を絞めるだけなので他人の知ったことではないが、それは結果として相手のQOLを下げるばかりか、その行為を満天下に晒すことで、それを見ている人たちの行動を弱化するような「嫌子」を与えてしまっているのだ。自分がこの手の生き物を公益を害する「害獣」認定せざるを得ないと思うのは、まさにそのような理由からである。

そう考えると、アンジュルムの、川村文乃さんのBIG LOVEがあまりにも大きすぎるというのは少し考えものではある。分断を深めるのは確かによろしくはないが、分断にも「筋のよいもの」と「筋の悪いもの」がある、という話は自分は常々論じているが、さすがに企画取り下げツイートに対して水に落ちた犬に石を投げるような真似をし続ける輩については「害獣」として野山に駆逐した方がいいのではないだろうか。思うにこれらの輩をこれを「BIG LOVE」で包摂したまま「筋の悪い分断」をなくそうとしても、結局は害獣どもの毒が再び全体に回り、またもや分断の傷跡が口を開けることになりかねない。つまりこれは「BIG LOVE」の成立条件を脅かすような因子を「BIG LOVE」は包摂しうるのか、という公共哲学的な命題であり、一ヲタクである自分には「それは論理的に不可能」としか言いようがないのである。だが一方で、アンジュルムならばこの難題を解決してくれるかもしれないという密かな期待も、決して捨てたくはない。本当に救いようのない層はやむを得ないにせよ、そして可能な限り自己肯定感の高い成員を増やすことで、より「アンジュルムに近い」共同体を作りたいものだ、という思いから描いてみたのが下の図なのである。

\神/の思し召しのままに

さて、「自己肯定感の底上げ」というところから、いよいよ最後の章に入る。ここで改めて考えたいのは、「何故アンジュルムのライブからは力を貰えるのか?」という話だ。

一つの理由は、アンジュルム自身が自己肯定感に溢れた存在であるという話だ。しかもその自己肯定感は決して最初から備わっていたわけではなく、彼女たちが長い歴史の中で獲得してきたものだということも、ヲタクに親近感と勇気を与える話である。和田彩花も、竹内朱莉も、あるいは勝田里奈でさえ、若い頃の言動を改めてかえりみればその自己肯定感の低さゆえの屈託があった。そして今回の渦中の人である川村文乃さんが、この三年間でいかに成熟を深めたかという話は既に触れた。つまりアンジュルムというグループのキャラクター性が、ヲタクにポジティヴなパワーを与えるものであるという話は、改めて論じるまでもない話であろう。

だが、もう一つの理由がある、と自分は考える。

川村文乃さんの件のブログがアップされる頃と前後して、TL上に #愛媛0514 #四国ホール公演おめでとう というハッシュタグを冠したツイートが現れ始めた。そしてこのハッシュタグの最初の投稿者である涅槃さんは、別ツイートで以下のように記している。

このムーブメントで重要なことは、「凱旋企画に賛成か反対か」という問い自体が既に止揚され、「各々が現場で好きなようにやればよい」という一つ上の次元の提言になっている点だ。そして、自分もその提言には諸手を挙げて賛成したい。変な話、自分はどうせやるなら「凱旋」企画ではなく「四国上陸作戦」にした方が良いとは思っているが、どうしても「凱旋」企画をやりたいというのであれば無理に止めるつもりはないし、その権利もないのである。

だいたいコロナ禍前のアンジュルムの現場というものは、ヲタクが仲間内で好き勝手にスクラムを組んだり声を出したりしていたものである。そうした諸力の拮抗の中で、筋の良い企画には人が集まり、筋の悪い企画は自然に立ち消えていったものである。しかし、たとえある企画が場の磁力の上で立ち消えたとしても、企画立案者に落ち込んでいる暇などないはずだ。何しろステージの上からはアンジュルムが強力な自己肯定感のエネルギーを送り込んでくる。つまりヲタクにとってアンジュルムの現場とは、各々が思うように振る舞い、時にそれがぶつかり合い否定されることはあっても、決して各々の自己肯定感は失われることがないという、壮大な心理的安全性の発生装置であったはずなのだ。

宗教改革はヨーロッパに「個人化」をもたらしたということはよく言われるが、活版印刷術の進歩により、ヨーロッパ各地の日常語に翻訳された聖書が普及したことがその理由の一つである。プロテスタンティズムに目覚めた人々は書物というメディア体験に規定される形で、一対一の個人として神に向き合うことになった。一方、カトリックのメディア体験というものは、聖職者の説法を耳で聞き、壮麗な宗教儀式を目で見るライブ体験である。そうしたカトリックのライブ的性質に、最も「フェス」的要素が加わったのがリオのカーニバルであろう。

プロテスタントはカトリックに比べると宗派の数が多い。個人化された「在宅」の宗教体験は心理的安全性を涵養する契機に欠けるため、「分断」が起こりやすいのかもしれない。一方リオのカーニバルはアンジュルムのライブに通ずる心理的安全性の発生装置だ。「カトリック」とはギリシア語で「普遍」という意味であるが、そこに集う者たちは皆「普遍的なる\神/の子」という安心感があるからこそ思うがままに振る舞えるのがカーニバルというものであり、それがカトリックという宗派の強みなのだと思う。

さて、コロナ禍の三年間の中で、ヲタク経験は随分と「プロテスタント化/在宅化」してしまったものである。ライブに行っても着席声出し禁止で、何ともプロテスタントのささやかな教会で地味な牧師の説教を聞いているような趣があったと思う。プロテスタントの国(主にゲルマン語圏)はカトリックの国(主にロマンス語圏)に比べると勤勉な国民性で知られる。そしてアンジュルムはコロナ禍の三年間でファン層の裾野を大いに広げた。新しく入ってきたヲタクたちが、入念に準備を進めようとするのもよく分かる。

だが、この先は「カトリックのノリ」に戻った方がよいのではないか。そして、その方がアンジュルムに合っているのではないだろうか

今回は「プロテスタント時代」のヲタクたちのために、川村文乃さん直々に「アンジュルムコールをやってほしい」というお願いが発信された。だが、その後「カトリック時代」を知る古参の方々を中心に、「多宗派共存」のための建設的な提言がなされ、各地でカーニバルの準備は整い始めている。不景気な愚痴垢(その手合いはカルヴァンの予定説では生まれた時から地獄行きが決まっているものである)には好きなように言わせておいて、皆思うがままに振る舞えばよいだろう。全ては\神/の思し召しのままでよい。自分は現地参戦することはできないが、東国よりカーニバルの盛況を\神/に祈り続ける所存である。

"Deus le volt"

追記:「ヲタクのエゴ」について

さて、今回の件について #愛媛0514 タグの創始者であるAkariさんがとても良いことを書いているので紹介しておきたい。

ただ、川村さんに縁が深い会場でライトパープルでいっぱいになった景色が観たかった。「私が」観たかった。

凱旋企画なんてオタクのエゴじゃんって言葉沢山みた。

「推しの笑顔がみたい」、そのエゴがなくてなんでオタクやってんの。

凱旋だろうとなんだろうと、オタクは推しの笑顔が!いつでも観たいもんだあああろおおおおがあああああああ。

そのエゴにプライドを持ってオタクやろうぜええええええなああああおおいいいいい

これは本当にその通りである。本文の方でも「代弁者スタイル」は胡散臭いという話は書いたが、実のところそれが本当かどうかよく分からない誰かの内心を「錦の御旗」にして人を批判するような「お気持ち」については、自分は大体眉に唾をつけて聞くことにしている。もっとはっきり言えば、そういう物言いをした時点で、自分はその人のことをあまり信用しない。というのは、「全ては自分のエゴである」という認識は、数十年まともに頭と心を働かせて生きていれば当然そこに帰着するはずの認識であって、そうでないとすれば、その人がろくな生き方をして来なかったという証左だからである。

にもかかわらず、上記のように「自己満足」という言葉を批判のクリシェとして用いたがる人はいるもので、これは「プロフェッショナリズム」賞賛とかと繋がる時代の流行病なのだろうな、ということは思う。今回の件の本質はコロナ以前の古参ヲタとコロナ以後の新規ヲタのハビトゥスの違いに起因するものだが、そんなことには考えも及ばず「凱旋厨」と雑にまとめてしまっている辺りも実に視野が狭い。

大抵この手の量産型毒説には、イシューとは全く別のところに本心が抱えている精神的な問題があるのだがそこに焦点を絞ることができない場合、批判の解像度が低いのをカバーするために便利な言葉なのである。要するに精神的にヘタレな割に頭もぼやけているのだが、下手にプライドだけは高いので自分を正当化せざるにはいられないタイプの人間の物言いで、まあ、人としては最低のレベルということになる。そもそも自分だけ高い位置に立ったつもりで結局本人は何もしないわけだから、「自己満」度合いはそちらの方が高いのではないかと思うのだが、まあ、せいぜい人知れぬところでおとなしく野垂れ死ぬがよいだろう。どこぞの社会学者の言っていた「マスターベーションして死ね」とはまさにこのことである。

なのでまあ結論としては、皆もう少し他人に強制しない程度に言いたいことを言い合う術を身につけた方がいいのではないか、ということは思う。少なくとも凱旋企画についてもそこまで肩肘張らなくとも…と思うことはあるが、逆にそれが他人に強要するものでない限りは、凱旋企画のお願いをして回っている人たちのことを生暖かく見守る寛容さも重要なのではないか。単なる「お願い」を「強制」だと感じてしまうのだとすれば、それはそう感じてしまう側の脆弱な自我の方の問題である。自分などはその辺こだわりがないので、ノリで周りに色を合わせることもあれば、ぼーっとしていて色を変えるのを忘れてしまうこともある。が、そんな感じでよいのではないだろうか。もう少し「自分に甘く、他人にも甘く」で言った方がよろしい。ただし「自分に甘く、他人に厳しい」者に対してだけは徹底して厳しく、ということが今回の追記の主旨である。

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