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I am ぱいぱいでか美

 先日開催された「でか美祭り2020」の中で、吉田豪・和田彩花・ぱいぱいでか美の三者による鼎談が催された(詳しくは下記リンク参照)。個人的にはとにかく一点だけ、大きな不満の残る鼎談であった。

とにかく、30分は短すぎる!

一触即発の和田彩花、機知縦横のぱいぱいでか美、如才ない吉田豪という組み合わせであれば、最低1時間は枠をとって話を存分に深めたり広げたりすべきであろう。これはもう、「懺悔室」のようにレギュラー化すべき企画だと思う。

ちなみに自分は、ぱいぱいでか美は、どちらかといえば和田彩花より福田花音に近い文化圏の人たちだと思っている。そして吉田豪もまた、和田より福田と絡んだ方が違和感がない感じはするが、逆に両者が福田と組むと違和感がなさすぎてやや刺激に欠ける感じもする。逆にこの両者に和田が組んだ時の違和感こそが、話を広げたり深めたりする上で一つのミソなのだろう。また同時に、以前の記事で書いたように、和田彩花と福田花音は対立的というよりはむしろ相互補完的な存在なのだということに気づき始めた自分としては、両者を架橋するようなぱいぱいと吉田の動きはとても面白いところがある。

ちなみに自分が前述の記事で論じたのは、福田花音とは、和田彩花とは方向性の異なる「フェミニズム」のアイドルである、ということであった。言ってみれば和田の「フェミニズム」が、「私のジェンダーが『女子』だと勝手に決めるな」だとすれば、福田の「フェミニズム」は「私のジェンダーは『女子』だが、その内容は私が決める」ということである。そして、2010年代前半のハロプロというのは、道重さゆみと嗣永桃子の二大巨頭に代表される形で、どちらかといえば後者の、福田の棹差す「フェミニズム」が主流だったのではないか、と思うのである。道重も嗣永も方向性は違えど、「女子」というジェンダーロールを男性目線に寄り添うことなく自己決定し、過剰なまでに前面に打ち出した表現者である。これに対し、そもそも「女子」のジェンダーロールそのものからの逸脱という和田型の「フェミニズム」は、おそらくBerryz工房であれば夏焼雅に端を発するものであり、10年代後半になってアンジュルムに継承されることになる。一方道重・嗣永型の「フェミニズム」の方はカントリー・ガールズの解散以降は、より「男性目線」によってそのラディカリズムを馴致された形になってしまっているように思える。

その意味で、カントリー・ガールズの熱烈なヲタクであったぱいぱいでか美の「フェミニズム」の根は、明らかに和田のそれよりは道重・嗣永のそれに近いところにあるように思える。そもそもその彼女の芸名からして、「最も女性的なるもの」の前面化に他ならない。自分から「私は胸がでかい」と名乗り出てしまえば、男側が「君は胸がでかいね」というセクハラをする機会は消滅してしまうという戦略である。ただ、この戦略にはいくつかの落とし穴がある。一つは「私は胸がでかい」という名乗り自体を拒む女性(和田型のフェミニスト)も存在するという点であり、もう一つは映画「告発の行方」で有名な、「あんな格好をしているんだからレイプされて当然」というエクスキューズを男性側に与えてしまうという点である。実際、男性優位社会においてぱいぱい型の生存戦略をとる女性はそう少なくはなく、彼女たちの多くが「男なんてこうやって転がしてやればいいのよ」と嘯くことで、そうした生存戦略をとれない女性を抑圧する社会構造を温存させてしまう例というのも少なくはない。彼女たちの「フェミニズム」は存在したとしても極めて暗示的なものであり、場合によってはその批評性を「なかったこと」にも出来る。その点、ぱいぱいが己の「フェミニズム」を明示化し、和田型のフェミニストとはっきり共闘する立場を示してくれたことは、非常に大きな意味のあることだと思うのである。

さて、この「私は胸がでかい」と言えるか否かに関連する話として、最近ハロ界隈を騒がした話題に、さんまのラジオ番組「ヤンタン」内での「癒せません」のコーナーをめぐる一悶着がある。性的な含みのある台詞をハロメンに言わせるというこの企画には、以前から批判の声があがっていた。そして先日、ついにあるハロヲタの方がこの企画への異議を番組へ投書したことから、さらにその方のツイートに和田彩花が「いいね」をしたことから、ハロヲタ界隈では先週喧々諤々の議論が巻き起こっていた。

自分の場合この件に関しては、まずは和田の動向が気になるところである。というのは、先日の記事でも論じた通り、和田彩花の思想は(おそらくはヤンタンでの嫌な体験などによっても培われた)個人レベル・実感レベルでのフェミニズムと、「表現の自由」を重視するリベラリズム(あるいはリベルタン)の二重構造になっている(ちなみに先日の鼎談で彼女はその理由を「美術史を学んでいたから」とはっきり明言していた)。実際「ヤンタン」に反対するあまりにも過激な意見に関しては、「表現の自由の侵害だ!」というような意見も既にあがっていた。ただ、ここには先日の小沢健二に関しての記事で触れたような、「BLM」に対して「ALMだろ?」と返す「ツッコミ」、あるいは数年前のシャルリー・エブド襲撃事件に際して、フランスで「Je suis Charlie(I am Charlie)」運動が巻き起こった時と同じ陥穽が潜んでいる。すなわち「ALM」「表現の自由」などの普遍的な理念が、社会的公正と衝突してしまうような事例だ。この両者の難しい綱渡りを出来ている言論人は、昨今の日本では本当に少ない。その点、その言論としては未だに素朴ながらも、凡百の言論人よりは遥かに高い発信力を持つ和田彩花という人が、現時点では両者を両立させようとしていること、そして、今後その綱渡りをどうしていくのかについては、私は並々ならぬ関心を抱いているのである。

次に私自身の考えに関して。まず個人的にはこの番組とコーナーには全く面白みを感じない。したがってこの番組やコーナーがなくなったところで、差し当たっては全く困らない。その上、自分は基本的には和田と同じく、アイドルの選択の自由を重視するリベラリスト(リベルタン)である。では上述の綱渡りを放棄して、明らかな社会的不公正を伴うからといって、その「表現の自由」をトップダウンで取り締まってしまえばよいのかというと、一概にはそう言い切れない引っ掛かりが二つある。

まず一つめ。ヤンタン側を擁護する意見として、「向こうの番組に出させてもらっているのだから文句は言うな」とか「プロなのだから仕事の選り好みはするな」といったものが、予想通り散見される。それらは大方は思考停止の現状追認的社畜言説ではあるのが、それを闇雲に否定するのも別種の思考停止であり、その中に含まれている真実を丁寧に拾い上げていく必要はある。まず手始めに考えたいのは、今回批判の的になってしまっている明石家さんまとは、そもそも何者なのか、という話だ。

明石家さんまとは、元々落語家なのである。

落語家は、一度師匠に弟子入りしたら、まずは徹底して師匠の芸を身体化するところから始まる職業である。この段階で下手に自分のこだわりを持ち続ける弟子は伸びないとされる。それは理の当然である。何しろ師匠と新入り弟子では芸歴が違いすぎる。どんなに潜在的な才能を秘めた新入りでも、どんなにパッとしない師匠より上手く噺を語ることはできない。落語の世界はそんなに甘くはない。まずは「守破離」における「守」から入るのが、芸事の世界というものである。

弟子入りして何年も経ち、次第に物心がついてきた弟子は、次第に己のスタイルの確立を目指して「破」の段階に入る。しかしその場合にも、自分の師匠には教えてもらえないような噺、もらえないような助言を求めて、他の師匠のところに稽古をつけてもらいにいく。「破」の段階でも、まずは「守」から入るのである。

古今の芸人伝などを読み漁っていると、そうした「破」の段階では現場監督というより弟子の統括プロデューサーのように振舞うようになるのが「よい師匠」だということがわかったくる。自分ではカバーしきれないな、と思えば、「●●師匠のところに稽古に行くのがよい」と助言し、逆に弟子に変な癖がついてきたな、と気づいたら、その師匠のところに行くのはやめた方がいいと助言したりもする。そうしたことを繰り返しているうちに、弟子は次第に自在な着脱の感覚を覚えていき、やがて師匠からも自立して「真打ち」となる、というのが理想的な落語家の成長である。

さて、これと同じことをさんまとハロメンの間に当てはめるのは、短絡的ではあると思う。そもそも落語の師匠と弟子とは異なり、さんまがお笑い芸人であるのに対し、ハロメンはステージパフォーマーである。また、ひょっとしたら批判派のいうように、彼は既に「師匠」としての機能などとっくに果たさない、前世紀の遺物なのかもしれない。実のところ、さんま個人について何が何でも擁護しようという思い入れと確信は、私にはない。そして、実のところ、さんま個人についてはどうでもいい。

ここで私が想起せざるを得ないのは、偉大なる我が御師(おし)、「ノム陀」こと野村みな美のことだ。

何回か書いている話ではあるが、元々アンジュルム専だった私が彼女に興味を持つようになったのは、2017年の末頃、こぶしファクトリーが相次ぐトラブルに見舞われていた頃に和田彩花が漏らした「みな美ちゃんだけは、ずっと前を向いているんです」という言葉であった。そんな言葉を念頭にふと目にした動画で観た彼女のパフォーマンスは、尋常ならざる「法力」に満ち溢れていた。

思えばこぶしファクトリーは最後の最後まで運に恵まれないグループであった。「癒せません」コーナーなど比較にならない、天命によるハラスメントに苛まれ続けたグループだったと思う。しかし我が御師は決して弱音を吐くことはなく、起こった全ての出来事を己の糧として、成長を続けられた。こうした苦労人は、苦労の末に現状追認しか能のない奴隷根性の虜になってしまうことがとても多い。しかし、御師はこの点においても全く違った。

逆に御師は、どんどん自由に、自在になっていった。解散発表直前頃には、そのパフォーマンスはますます闊達自在さを増し、そのことを喜ばれるブログも増えていった。そしてパフォーマンスのみならず、ブログではっきりとした自己主張をされることも増えていった。私が忘れられないのは、御師が未熟だった頃のご自身を振り返り、その頃に先輩に嫌味を言われたことを思い出しながら、ああいう先輩には絶対になりたくない、と、強く宣言されたブログである。つまり御師は、己を取り囲む理不尽な環境を受け入れることでその理不尽さを内面化するのではなく、その理不尽さを突き抜けるような自在性を獲得し、ついに環境そのものを解脱され、涅槃の彼方へと旅立っていかれたのである。

今思えば、我が御師は理想的な「弟子」であられた。ハロの「理不尽さ」に真っ向から叛旗を翻す「革新派」の和田彩花に私淑しながらも、その真逆の、ある意味ハロ保守本流の「職人」である高木紗友希にも私淑していた。御師はその両者の教えを忠実に守りながらも、同時にその両者から規定されることのない自在性を維持し続けた。それはまさに、王族として何不自由のない暮らしを送った後に出家し、正反対の苦行生活を送った後、そのどちらでもない「悟り」の道を開いた仏陀のようであった。

わずか2年の短い間ではあったが、あのような偉大な方を御師としてあおぎ続けた自分としては、今回のヤンタンを巡る二項対立はいささか皮相なものに見えてしまう。さんまの押し付けてくる理不尽に屈する必要はない。だが、あくまで選択肢の一つとしてでよい、理不尽の中に飛び込むことで、理不尽そのものを突き破るような自在さを獲得するような選択肢が、残されてもよいのではないだろうか。世の中というのは大抵、玉石混淆なものである。どんなに才能のある弟子でも最初から語れる噺はないのと同じで、何が玉で何が石かは、土砂の中に飛び込んでみるまではわからないのだ。無論、土砂の中に飛び込まないという選択肢は、念入りに保証されるべきである。だが、土砂の中で玉だけをかき集めた上で、土砂の向こう側に突き抜けるような道が、ハロメンの前に残されていてもよいのではないか。

そしてもう一つ。

再びぱいぱいでか美の話に戻る。和田彩花のヤム移籍以来、ヤム所属のアイドルたちのパフォーマンスを目にすることが多くなった私は、「吉川友にぱいぱいでか美」の「最高のオンナ」という曲のクオリティにまず驚いた。そして、この曲が彼女の作詞・作曲によるものを知り、さらに度肝を抜かれた。


お前の全てを受け止める、とか 余計なお世話よ!放っといて!      流れ星を見つけた時に 教えてよ ミニスカだってこちらのタイミング

今まで述べてきたぱいぱいでか美の「フェミニズム」の真髄が、上記の歌詞に現れていると言える。「ミニスカだってこちらのタイミング」ーまさに、女性が自己決定する女性性である。ことほど左様に「最高のオンナ」は、ひたすら「女が勝手にやらせてもらいます」ということが好き放題歌われた歌だ。しかし、男の自分が聞いても全く嫌な感じがしない。それどころか、聴いていると元気が出てくるようなところがある。それはおそらく、彼女の根底に下記の考え方が、曲の全編に染み渡っているからではないか、と思うのである(上記鼎談記事より抜粋)。

(ぱいぱいでか美)そうなんですよ。だから私とかも、その若いイケメン男性俳優のドラマとか見てると、もう絶対に必要のない筋トレのシーンとかあるんですよ(笑)。で、それをなんか手放しで喜びたい自分と、これがその性別が入れ替わっていたら今の時代だとちょっと問題になってるのかな、みたいな。男性側もこのシーンを嫌だと思う人も絶対にいるし。でもそれを「表現の自由」っていう中でどういう枠組みにするかというか。「この時間には放送してはダメだろ」とか「この時間ならばいい」とか。たぶんあると思うんですけど。すごいそれは感じますね。なんか「男女逆転して考えてみよう」とかも思います。

「最高のオンナ」は、価値観の異なる者同士がすれ違う様を描きながら、「両者共存」願う和田彩花のそれよりも、一見お気楽で自分勝手なものに見える。だが、「男女逆転して考える」ぱいぱいでか美がそれを書き、そして歌う時、あくまで「女性」について歌っているはずなのに、全人類を覆うような普遍的なパワーを感じるのだ。自分はこれと似たようなものを、以前に味わったことがある。「戦場のガールズライフ」を描いた岡崎京子の作品群である。自分のような捻くれ者は、その元ネタである小沢健二の「戦場のボーイズライフ」を聴いた時には、「ボーイ」で一括りにするなよ、というイラっとした感覚を抱いたものである(私は常にイライラしながらも小沢健二を聴き続けるリスナーである)。しかし隣の芝生は常に青く見える。此岸の祭りは押し付けがましいものだが、岡崎の作品群のような彼岸の祭りについては、眺めているうちに同じような祭りを此岸でもぶち上げてみるか、と思えるようになるものだ。「他者性を持つ」というのは、彼岸からの眺めをわかったつもりになることではない。そうではなく、その不可知性を十分にわかった上で、彼岸にも届くような声で祭りを始めることなのではないか。岡崎京子と同じくぱいぱいでか美には、その「声の大きさ」があるように感じるのである。

さて、ぱいぱいでか美がそういうスタンスだとすれば、こちらも同じように考えなければならない。つまり、さんまのように古典的な「男性目線の女の幸せ」をしたり顔で代弁するのと同様に、それに晒され、それに対して何らかのアクションを起こそうとする女性の気持ちを、勝手に代弁するような真似は避けなければならないのではないか。もし、ぱいぱいでか美が「癒せません」に出演した場合、さんまのネタに乗るのか、それとも「それはセクハラです!」と食ってかかるのかはわからないし、わからなくて当たり前である。その「戦場」はあくまで彼女のものであり、我々が口を出すべきことではない(彼女の「自由」を侵害する者がいるとすれば、彼女の相対している「敵」のみならず、案外銃後の味方であることもありうるように思う)。そして何よりも彼女が社会的不公正と戦う「友軍」であることは(つまり件の「Charlie」とは異なり、彼女の名前を呼ぶことがいかなる社会的不公正にも繋がらないということは)、今回の鼎談で彼女が十分に示してくれた。だとすれば我々に出来ることは、その戦場でどう振る舞うかという彼女の「自由」が侵害された時に、此岸から彼岸に聞こえるくらいの大声で、「I am ぱいぱいでか美」と叫ぶことで十分なのではないか。そしてもし、彼女に続いて「戦場」に立とうと腹を決めたハロメンがいるとすれば、我々はその者の名をハロコンの時と同じくらい野太い声で叫び、その背中を押すべきなのだと思う。

ただし何度も繰り返している通り、そんな「戦場」には立ちたくないという者の自由も、十分すぎるくらいに保証されるべきものである。その者の選択の「自由」が侵害された場合にも、我々はその者の名をコールする必要があるだろう。そして「戦場」に立ちたくないという者に対しては、その選択肢をとることに対する心理的抵抗を下げるために、「戦場に立たない」という選択肢をデフォとした選択肢の組み立て方をする必要があるだろう。そう考えた時、2018年ビバラポップの時、「尊いアイドルに自分のフルネームを呼ばせないようにしている」という話を冗談混じりで話していたぱいぱいでか美は、あの時も「フェミニスト」だったのだと思う。私もその話を聞いてゲラゲラ笑っていたが、今思えばあれは、自分と同じ「戦場」に嫌がる者たちを立たせまいとする彼女の使命感だったのだろう。さて、最後に彼女のツイートを紹介して終わることにしたい。それは、2018年ビバラポップの後、彼女の努力も虚しく、何のてらいもなく彼女のフルネームをブログに書き綴った一人のアイドルについてのツイートである。

げに解脱者とは、まことに畏れ多きものである。


追記1

ちなみにヤンタン問題についてヲタクがどう振る舞う「べき」かですが、先日ツイートで書いた通り、基本「嫌なら聴かなければいい」以上は、「番組の視聴者であり、かつ改善を望む」者だけが番組に意見をすべきだと思います。そして私は別に視聴者ではないので、意見運動には乗らないのが筋、と考えております。

ある意味クレーマーが猛威を振るうと同時に叩かれるようなご時世になってきていますが、「自分はこれは気にくわない」と意見するだけなら全然フェアな行為だと思うんですよ。向こうだって営利だし、参考になる客の意見ならありがたいでしょう。ただ、それはあくまで「意見する」ところまで留めておくべきで、経営判断はあくまであちら側の裁量であり、こちらの意見が絶対通るわけではないというところは踏まえておかないといけない。そこを踏み越えて営業妨害的なクレームをするようであれば、それはアンフェアな行為を行う暴徒の一種ですので、強制的に排除されても仕方がないと思う。ただし、そういう一線を越えないフェアなクレームを行なっている者に対して、クレーム自体をやめさせようという行為も同時にフェアではありません。その場合は、逆側の声を先方に届ければいいだけの話です。それはそれで、向こうの経営判断の材料になるでしょう。

まあ今回のように社会的公正が絡む話になると、「何としても意見を通したい」と思ってしまう人が出てきてしまうものですが、今回みたいに社会的公正と表現の自由がバッティングするような場合には、そこを上手く調整するために「市場原理」を利用するのがいいんじゃないかと思います。私は市場原理至上主義者ではありませんが、こういう時は大いに利用すべき。先方も商売ですから、商売が成り立たなければ仕方がないわけです。そのために必要な声を届けた上で、あとは先方がどう判断し、市場に淘汰されるか否か。「神の見えざる手」の判定を待つのが一番かと。

あとFFさんの一人が、「聴きたくないものは聴かなければいい」とは言っても、最近はラジオの書き起こしなどが拡散されて、見たくない人、聴きたくない人の目にとまってしまうことが多い、という話をされていたんですが、それは本当にそうだと思います。しかもそれって、たまたま目にした「見たくない人/聴きたくない人」が、仲間の「見たくない人/聴きたくない人」に拡散しているケースが多い(笑)。家にヒキガエルが入ってきたのをわざわざ捕まえて「こんな気持ち悪いものが入ってきたよー」と家中見せびらかしてまわるわけです。いいから玄関先で庭に追い返せよ、という話。

とはいえそういうことをやってしまう人たちの心性というのは理解できないわけではないので、まずはファーストコンタクトの確率をさげることでしょうね。まずは玄関にヒキガエルが入ってこないようにするにはどうするか。それは(だいぶ先の長い話ではありますが)SNS上では「棲み分ける」アーキテクチャで少しずつ解決していくしかないと思う。あと、ラジオからの悪意ある書き起こしとかは(野中さんのケースとかはひどかった)、典拠の音源を示していない以上は広義の著作権に触れる話なので、炎上に加担している垢を「違法行為」という形でtogetterでまとめて晒しあげたりすれば、少しは炎上に対する抑止力になるのかな、ということは思います。まあ、私は面倒くさいのでそこまではやりませんが。


追記2

今回は何となく綺麗事ばっかりになった気がするので、バランスを取るために今回はヲタクらしく少し下世話な話もしておこうと思います。

自分がなぜ、「いやせません」的なものに興味がないかというと、自分の場合ほとんどのハロメンとその周辺メン(最近はそっちの方がメインだったりする)を「女性」としてではなく「人間」として興味深くヲチしているからです。その理由は、自分が性的魅力を感じるストライクゾーンがかなり狭いのと、それだけ人間的に面白いメンが多すぎる、という二点につきます。

特に今回の場合、「和田彩花 vs. 明石家さんま」とか、完全に新旧文明対立の様相を呈していて面白すぎです。二人とも基本善意の人で、関わった人たちによかれと思って色々やっているのは同じだと思います。ただ、あまりにもそのやり方が正反対すぎる。ちなみに私は和田さんのやり方を支持します。さんまさんのやり方は古いというのもありますが、あまりに属人的、つまり彼くらいの話芸があってようやく成立するものだと思います(実際、世の中「話芸のないさんま」ばかりでしょう)。和田さんのやり方の方が実はハードルが低く、誰でも真似できる、汎用性が高いところがあると思う。

その辺の対立構造や、あるいは逆に共振しうる部分も含めて、変な一発芸コーナーにリソースを割くよりは、ハロメンにはもっと普通に話してほしい。これは別にさんまさん相手に限らず、ハロメンの人間性、何を考えていてどういう人間なのかを知れるような番組進行の方が、自分的にはありがたいな、と思うことは多いです。

で、ストライクゾーンの狭い私ではありますが、誰とは言いませんが性的魅力を感じるメンも中には存在します。ただ、私は自分が性的魅力を感じてしまった以上、そのメンは推さないことに決めています。というのは、自分は身も蓋もない考え方しかしない人間なので、

①性的魅力を感じた以上は、恋愛関係の成就を目指すのが生物学的摂理

②しかし相手がアイドルである以上、恋愛関係の成就は絶対に不可能

∴推しても無駄

という結論になるわけです。

で、そうだとすると、自分が性的な魅力を感じないメンのみならず、性的な魅力を感じるメンに関しても、「いやせません」とかに出たところで困るわけです。たとえばそのメンが写真集を出したとして(誰とは言いませんがそのメンは今年の始めに「燿 You make me」という写真集を出しています)、私が思うのは、「皆、彼女のために写真集を買え。ただし、絶対に開いて見るな。開いて見ていいのは私だけだ」ということになります。で、同じことを「いやせません」のケースに当てはめるとすれば(以下、自主規制 


追記③

長くなりそうなので別立ての記事にしました。


























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