阿修羅の偶像(アイドル)プロローグ第2節
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「おはようございます」
沙羅の声が響き、部屋が急に明るくなった。外はまだ暗い。寝ぼけ眼でスマホを覗き込むと、まだ4時である。朝は6時起床と言われたので、アラームをセットしたはずなのだが——
「今朝のおつとめは私が全部やります。叔父さんがヤクシャさんを連れていきたいところがあるそうです。まだ肌寒いので暖かくして山門のところまで来てください」
沙羅は抑揚のない口調で用件をまくし立てると、スタスタと歩いて行ってしまった。
「おはよう。急な思いつきで済まなかったな」
保(たもつ)が山門まで出てくると、先生は申し訳なさそうに頭をひと掻きして歩き始めた。
「まあ、今朝は少し早起きで寝不足の方がいい。午前中にたっぷり働いてもらい、午後にはたっぷり昼寝をしてもらう」
そう言いながら先生が進むのは、昨日保がやって来たのとは逆方向、山に向かう上り坂だ。
「昼寝をすれば今度は夜中に眠れなくなる。今夜はちょうど今くらいの時間まで徹夜してもらう必要があるんでそれでちょうどいい」
そんなことを言いながら、先生は夜明け前の薄闇の中を颯爽と歩いていく。既に初夏とは言え、山沿いのこの場所では、早朝には吐く息もまだ白い。歩くうちに右手の山林がまばらになり、木立の向こうの谷間に開けた土地が垣間見える。
「あれは全部うちの墓地だ」
先生が木立の間を指差して言う。
「うちみたいな寺でも、昔はそれなりに檀家がいたもんだが、最近は本当に少なくなった。あの辺の墓は戦前のものばかりだ。みんな順調に無縁仏になってる」
皮肉な笑みを浮かべながら、先生は少し歩みを速める。山道は次第に右に曲がり、「羅睺山(らごうざん)ハイキングコース」と書かれた看板が立っているところで舗装が途切れ、地面が剥き出しになった遊歩道に変わった。
「だが、地球は回り、陽はまた昇る」
木立が切れ、山道が墓地の上から谷間を見下ろす尾根道に出たところで、保は思わず息を飲んだ。
眼下には青海の街を見下ろす絶景が広がっている。向かって左手の地平線はようようと白み始めているが、右手では群青色の夜空と黒い山並みが一体となって瑠璃色に染まり、まるで一面の大海のように見える。
「凄え……」
その感情は感動、というよりは畏怖に近いものに感じられた。瑠璃色の天地の中、形を変えながら悠々と移動していく荒々しい雲は、まるで獰猛な龍のようにも見える。そしてあの雲と自分の間には、隔てるものが何もない。保は大自然の中にただ自分一人が投げ出されて、巨大な龍の生贄として供されているような心持ちを覚えた。
やがて視界の右手に、一際背の高い山影が露わになっていく。
「富士山?」
「そうだ」と先生が答える。
「青海は富士山の北に連なる関東山地の東の縁に当たる。そこから東に吹き出した気の流れが、この国の首都を作り上げた。ここから見下ろせば、それがよくわかるだろう」
先生は正面に連なる低い山並みを指差した。
「あの山並みの手前が今の多摩川の谷だ。あいつが何万年もかけて広大な扇状地を作り出した。今の多摩川は、その南の谷を刻んでいる。そしてうちの境内の池から流れ出しているちっぽけな沢が流れを集めて入間川に合流し、北の谷を刻んでいった。川の流れは龍脈の流れだ」
「龍脈……ってなんなんですか?」
「風水術の言葉だ。山に潜む青き龍が吐き出す気のことだよ。古来天下泰平の礎となる都は、その祖山に連なる山に潜む龍の気を利用して作られる。江戸東京もまた、例外ではない。だが、龍脈は時が来れば必ず枯れる。龍の気が枯れれば、必ず都がケガレる。何しろ江戸東京は日出ずる地の都だ。ここがケガレれば、世界もケガレていく。疫病が流行り、人心は荒廃する。さて、ヤクシャ君、」
先生は保の目を覗き込んだ。
「お前さんならどうする? このケガレを、どうやって『掃除』する?」
「ど、どうって……」
途方もない話に、保は目を白黒させた。だが、まともに反論してもしょうがないような気はする。とりあえず先生に話を合わせるしかない。
「龍をもう一度引っ張り出して気を吐いてもらうとか……」
「その通りだ」
先生が大きく頷くと、
「デカい龍なら、沙羅も見失わないで済むだろう」
「ははっ」
先生の言い草がツボにハマったようで、思わず大きな笑い声がこぼれた。すると先生は目を丸くして、
「いい声を出すじゃないか」
「あ、すみません!」
保は恐縮して身を縮める。
「謝ることはなかろう」
「いえ、無駄に図体がデカい上に声もデカいもので……」
「お前さんも気苦労の多い男だな」
先生はやれやれと頭を振ると、ふうっと溜息をつき、
「まあ、末法の世は何かと息苦しく、気苦労の多いものだ。だが、」
そう言って地平線の彼方を見つめると、
「それも今日が最後だ」
2021年5月12日の朝日が、勢いよく昇ってきた。
「嘘でしょ?」と、沙羅が目を丸くしている。
「そんな軽々と……なんかドーピングでもしてるんですか?」
「そんなわけないですよ」
保は苦笑しながら板を運んでいく。
山を降りて朝餉を済ませた後、いよいよ最後の大仕事に取り掛かることになった。本堂の大掃除である。
まず保が驚いたのは、この本堂がえらく簡素な作りになっていることであった。四方の支柱の間に壁はなく、取り外し可能な板が張り巡らされているだけなのだ。保の仕事はこの板を全て外し、母屋の裏に運ぶことであった。
「お前さんに来てもらった甲斐があったってもんよ」
先生は嬉しそうに笑った。確かに力仕事が得意な保に持ってこいの仕事ではある。しかし、学園祭の屋台か何かのように本堂の四面を取りはずしてしまうことは、少しばかり罰当たりに感じてしまう。何でもこの寺の本堂は形ばかりで、法事などは全て先生の義兄が住職を務めている別寺の方で行うのだという。
「板は雨露を凌ぐビニールシートみたいなもんだ。むしろこっちの方が、本来の姿だよ」
先生はそう言って満足げに笑った。板が完全に取り外され、四方に開かれた本堂は、まるで何か催し物を行うためのステージのようだ。
「さて、次は天井の掃除だな」
「はい」
次の保の仕事は、脚立に登って天井板を一つ一つ外していくことである。
「沙羅は板を持ってって、どんどん洗ってくれ」
「了解! あ、そうだ! ヤクシャさん!」
「はい?」と保は最初の板を外しながら答える。
「一つ言い忘れてました! 多分ビックリすると思うんですけど——」
「うわああっ!」
驚きのあまり、保は外した板から手を離してしまった。音を立てて床に落ちた天井板の上から一匹の大きな白蛇が飛び出し、床の上でとぐろを巻いて怒りの鎌首をもたげている。
「間に合わなかったかあ!」
沙羅は顔を真っ赤にして平身低頭する。
「大丈夫です! この子アオダイショウなんで毒はありません! この本堂の守り神で、いつもネズミを食べてくれるんです! ごめんね、国孫(こくそん)様。今夜お祭りだって、先に言っとけばよかったよね……」
沙羅はしゃがみ込んで、白蛇にペコペコと頭をさげる。すると白蛇はプイッと顔を背けると、腰を抜かしている保の横をするすると抜け、池の方へと這い去って行ってしまった。
「あーあ、国孫様のこと、怒らせちゃったかな……」
沙羅はがっくり肩を落とす。
「まあ、寝起きで機嫌が悪いんだろう」
先生は小さく肩を竦めると、
「すぐ戻ってくるさ。国孫様も、今夜が二千年に一度の祭だってことはよくわかってるだろうよ」
そう言って沙羅の頭をぽんっと叩く。その様子を、保は憔然と眺めていた。
目が覚めると、外は既に暗い。
あの後、結局昼前までかけて御堂を掃除した後、順番に風呂を浴びて身を清めた。今朝先生に言われた通り、朝四時起きからの肉体労働の後、風呂上がりには既に疲労困憊で、保はそのまま布団に倒れこんで泥のように眠った。
目が冴えてくると、今朝のあれを思い出して背筋がぞくりと寒くなった。あの不気味な白蛇がその辺りにとぐろを巻いている気がして、思わず起き上がって周りを見渡してみる。それにしても、やはりあの沙羅という子はどこかおかしい。トカゲまではまだ我慢できたが、蛇は……
不快感を紛らわすように、保は枕元のスマホを覗き込んだ。今日の東京都の感染者数は969人、相変わらず増え続けている。昨日までだったはずの緊急事態宣言は、結局今日以降も延長という話だ。世界が一変する祭りが始まるかのように先生は盛り上がっているが、下界は何も変わらぬ有様である。
その時、廊下にパタパタと足音が聞こえる。やがて障子がガラリと開き、
「お、起きてますね」
沙羅の顔がひょっこりと現れた。
「夕餉の支度が出来てますので、炊事場に来ていただけますか?」
「あ、はい……」
「よろしく」
沙羅は首を引っ込め、またパタパタと去っていく。彼女は自分よりも早く昼寝から目覚めていたはずなのに、どうしてああも元気なのだろう、と思いながら、保はゆっくりと立ち上がった。
廊下に出て、炊事場に向かう。香ばしい匂いが漂ってくる。突然保は、自分がひどく腹が減っていることに気づいた。
炊事場の戸を開けると、すぐに先生が振り向いて駆け寄ってくる。
「おお、来たか」
先生は台の上に置いてある大きな銀皿を抱えて持ち上げると、
「これを本堂まで運んでくれ」
そう言って保に手渡した。
銀皿は料理の上に銀色の蓋が被せられていて、ずっしりと重い。蓋と皿の隙間からは、ふんだんな香辛料の匂いが立ちのぼり、保の食欲を容赦なく刺激する。何やら本格的なエスニック料理のようだ。
本堂には既に灯りが点されていて、真ん中には大きな卓袱台が置かれている。その上にノートパソコンと大きなスピーカー、そしてその傍らに白い弦楽器のようなものが立て掛けられているのを見て、保はひどく場違いに感じた。だが、何しろ食欲と好奇心の方が優っている。皿をそっと卓袱台の上に置くと、蓋をズラして中を覗き込んでみた。
皿の縁にはこんがりと焼かれた牛肉が芳香を発している。そして皿の中央には大量のターメリックライスと野菜の炒め物が、これでもかと言わんばかりに詰め込まれていた。
「パールシーのご馳走だよ」
声に振り返ると、見事な紫の袈裟に身を包んだ先生が、銀の大皿を抱えて立っていた。
「パールシーって、何ですか?」
「インドに住むゾロアスター教徒のことだ」
「……ぃっ!」
保は思わず息を呑んだ。
先生の抱えている銀の大皿には、丸焼きになった仔牛の頭がまるまる乗せられている。その周りに山と盛られ、てらてらと光っているのは、どうやら仔牛の臓物であるようだ。
「さあ、祭りを始めるぞ。来てくれ」
先生は踵を返し、本堂の裏へと向かう。白装束に着替えた沙羅がそれに続き、その手には点火棒を携えている。
「パールシーの最高神たる阿修羅は、元々は牛を屠る神だ。仔牛の脳味噌と臓物は、かの神への最高の供物ということになる」
先生は袈裟の裾を夜風に靡かせ、悠々と橋を進んでいく。本堂から遠ざかるほどに左右の水面は夜闇に溶け、保は自分が無間の暗黒に向かって歩いているような錯覚に陥っていった。
「沙羅」
中の島に着くと、先生は沙羅の方を向いて声をかける。
「拝火台に火を」
沙羅が点火棒に火を灯した。社の前には燭台のようなものが置かれていて、その上には炭が敷き詰められている。沙羅はそこにゆっくりと点火棒を近づけていく。炎に照らされた白装束の沙羅は微かに薄化粧をしていて、つい先程までとは打って変わった神秘的な美しさを放っていた。
拝火台に火が灯され、闇の中に浮かび上がった社の扉は既に開かれている。そして夜の真ん中に、水天像があかあかと照らされていた。先生は社に入り、贄を乗せた皿を水天像の前に置くと、静かに手を合わせ、
「クルバラー・ダフェ・シャヴァド」
遠い異国の文言を、朗々と詠唱し始めた。
「オ・ディヴー オ・ダルジュ オ・パリ オ・カフタール オ・セヘラーン オ・バード・アクタヘド・アキ・ダルデ・シェカム・ハフト・アンダーム カラレ・シャイターン オ・カーティル・パレシャーン オ・カラレ・ダマーグ・シャイターン カーティル・パレシャーン・バード オ・ダル・ナザル・バルヴィザン・ター・ディドネ・ナヴァシュト オ・マーナンド・ハムチュニン・バラー ダフェ・シャヴァド」
先生はこれを三遍誦した後、静かに目を瞑ると、再び口を開く、
「アシェム・ヴォフ・ヴァヒステム・アスティ ウシュタ・アスティ・ウシュタ・アフマイ ヒャト・アシャイ・ヴァヒシュタイ・アシェム」
しばしの沈黙の後、先生はくわっと目を見開き、
「水天とは即ち水面に映る炎なり」
低い声で朗々と吟じ始めた。
「拝火教の阿修羅即ち婆羅門(バラモン)教の水天。火天即ち水天となり、宗旨変われば正邪は糾える縄のごとし。然れども遡れば水天即ち弥勒と一体を成す者なり。然れば弥勒龍華(りゅうげ)の下に三会(さんえ)を成す時、水天も転輪の聖王(じょうおう)として顕現し、須弥山(しゅみせん)の北、三柱の青龍の護る金色の大海に抱かれた地に、必ずや仏国浄土を開闢せん。破ぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
先生は手に握りしめた数珠を激しく震わせると、大きく「喝っ!」と叫んだ。
「戻ろう」
先生は踵を返し、橋を戻り始めた。
「かっけえ……」
沙羅の声が少し震えている。その頬も興奮で上気しているようだ。
「あれが水天召喚の秘儀……」
「適当だ」
「は?」と沙羅が目を丸くする。
「とりあえずゾロアスターの聖典から使えそうな文言を掻き集めただけだ。それでそれらしい祝詞をでっち上げてみた。贄も、まあ、臓物とか好きそうかな、という」
「……そんなんでいいの?……」
「秘儀の先行事例は色々ある。清代中国の白蓮教徒とかな。だが、よく考えてみろ。人類はまだ一度も水天を引っ張り出せていないんだ。残されているのは、全て失敗例の歴史ってわけだ。だからこそ、」
先生は沙羅の目をまっすぐに見つめた。
「新しいやり方を試す意味があるんだ」
「わかった」
沙羅の表情が明るくなった。そして橋を渡り終わると、沙羅は足早にお堂に駆け上がり、白い弦楽器に付いているストラップを肩に掛けながら言った。
「ヤクシャさん、お願いがあります」
沙羅が口を開いた。いつも以上にキリッと引き締まった顔になっている。
「私が『ハイ』と言ったら、このパソコン画面の『再生』ボタンを押していただけますか?」
「わかりました」
今までにも増して真剣な沙羅の圧に押されるように保は本堂に駆け上がり、パソコンの画面を覗く。そこには既に音声プレイヤーソフトが立ち上がっていた。
「いいですか?……ハイ!」
保は再生ボタンを押した。シンセサイザーとリズムパートで構成された電子音が鳴り始める。その上に沙羅の奏でる弦の音が重なり、ミディアムテンポの懐かしさを誘うようなメロディが紡がれていく。続いてスピーカーから、ボーカロイドの声が流れ始めた。
「ブラボー!」
曲が終わると、先生は上機嫌に手を叩いた。
「イエイ」
沙羅は少しはにかんだ表情でピースサインを作る。が、すぐに凛然と顔を上げ、
「じゃ、行ってくる」
「おお」と、先生はゆっくり首肯して言った。
「お前さんの『推し』を、引っ張り出してこい」
「……うん」
沙羅は、静かに、だが力強く頷くと、本堂から降りて池の方に向かった。
「……いい曲でしたね」
橋を渡る沙羅の背中を見つめながら、保は感慨深げに呟いた。
「あの曲はあれの自作だ」
「え?」
「あれはボカロPなんだよ。ついでに昔からアイドルヲタクでな。次元構わず『推し』を作りたがるクチだ。そして今夜はあいつの夢が叶う夜なんだ。夜明けまで社の前で祈りを捧げ、『推し』の『出待ち』するんだとよ。さて、」
先生は待ちくたびれたように卓袱台の前に座った。
「腹が減って死にそうだ。うちらも宴を始めよう」
「は、はい」
先生は大皿に乗った御馳走を取り皿によそって保に渡すと、盃を二つ卓袱台の上に並べ、緑色の酒をとくとくと注ぎ始めた。
「酒はいける方か?」
「いえ、あまり……」
「ではこちらにしよう」
先生は傍の水入れに持ち替え、中のお茶をもう一つの盃に注いだ。
「何せ今夜は夜明けまで寝られない。この茶は蘇摩(そうま)茶といってな。強力な覚醒作用がある」
「は、はい。では、いただきます」
保が先生に渡された盃を受け取ると、先生は「乾杯」と言って盃に口をつけた後、皿に盛られた料理を勢いよくかっ込み始めた。
「蘇摩はこの料理にもたっぷり入ってる。あの池で取れる水草だ。昭和の初め頃までは、庚申祭の夜には村の衆がこの御堂に集まり、蘇摩酒や蘇摩茶を飲んで目をギンギンに覚ましながら夜を徹したそうだ。お前さんは昨日、うちに来る前にあの岐で庚申塔を見ただろう」
「……はい」と保は表情を少し強ばらせながら答える。
「そういえば、授業でもお話しされていましたね」
庚申祭とは江戸時代以降、日本各地に浸透した民間信仰である。人間の体には三尸(さんし)という三匹の虫が住んでいて、六十日に一度の庚申の夜、寝ている人間の体を抜け出し、宿主の悪事を天帝に報告に行く。そして報告を受けた天帝は罰として宿主の寿命を縮める。だから無病息災のために、庚申の夜には村人が一つところに集まって夜を徹して過ごすことで、三尸が体から抜け出していかないようにしたのだという。
そして庚申塔とはここから派生したもので、悪疫からのお守りとして村の外れに置かれた水天の石像のことを指す。水天像はその手に三尸をぶら下げているものが多い。うっかり居眠りした村人の体から抜け出した三尸を、水天が村の外れで捕まえてくれるというのだ。そして水天が足蹴にしている鬼は、まさに悪疫の象徴ということになる。保はたまたま履修していた先生の授業でこの話を聞き、鬼の声が聞こえてしまう悩みを相談しようと思ったのであった。
「まあ、授業で話した話は、日本人がでっち上げた迷信だよ」
先生は意地悪そうに微笑んで、
「だいたい、この国の民は昔から自分たちに甘いんだ。だって考えてみろ。そんなに美味い話があってたまるか」
そう言って肩を竦めると、
「だって、なんぼ悪事を働いても、二ヶ月に一度徹夜すれば許されるんだぞ。しかもうっかり居眠りしても水天様が助けてくれるときてる。自分の教えがそんなことになってるなんて、お釈迦様が聞いたらびっくりだ。まさに虫が良すぎる。だがな、」
先生の目が鋭くなった。
「鬼どもにとっては話は別だよ。鬼道ってのは地獄堕ちしない程度の小悪党が行くところだ。肝の小さい奴は迷信を信じやすい。死んだ後もな。だから奴らは庚申の日が近づくたびに哭き始める。自分たちが水天様に退治されちまうんじゃないかと恐れ慄いて哭くんだ。そして奴らの哭き声は、」
「……うっ」
保は頭を抱えた。
「庚申の夜には、海鳴りのような合唱となって鳴り響くってわけだ」
「……うううっ」
たまらず耳を塞いだがそれは止まらない。先程飲んだ蘇摩茶のせいで聴覚が異常に鋭敏になっているのかもしれない。さっきまでは風の音程度にしか感じなかった鬼の哭き声が、山里の彼方此方から保の耳に突き刺さって来るのだ。
「……ううっ……あ、あああっ!」
「まあ、心配するな。じき、止む」
先生は気の毒そうに保を一瞥して言う。
「なぜならば、実際には水天様はそんなことのためには現れないからだ。居眠りした小悪党から抜け出した三尸を捕まえてくれるなんて、虫のよいことのためには現れない。だから庚申の日のたびに、鬼どもの心配は取り越し苦労に終わる。庚申の日の24時が過ぎ、水天様など現れないことが分かれば、」
先生はそこで腕時計をちらりと見た。
「哭き声は止む」
その瞬間、鬼の声がぴたりと止んだ。
「はあ……はあ……はあ……」
保は息も荒いままに床に蹲っている。体が焼けるように熱い。蘇摩茶が聴覚のみならず、五感の全てを最大限に高めているのかもしれない。先生はその様を物憂げに見つめていたが、保の呼吸が落ち着くのを待って、再び口を開いた。
「だが鬼どもは学習しない。そして次の庚申の日が近づけばまた哭き始める。奴らの恐怖は終わることがない。それは鬼どもが恐ろしげな姿形をしているだけで、実際には無力な亡者に過ぎないからだ。奴らは人に危害など加えない。人に病をもたらす力などあるわけがない。でも、ただ恐ろしげな姿をしているというだけで、ある者は鬼を恐れ、ある者は鬼を全力で虐げようと試みる。またある時は、疫病のように人間自身が生み出している災厄ですら、鬼のせいにされてしまうわけだ。だから鬼は人を恐れているのだ。人が奴らを恐れている以上に、奴らは人を恐れているのだ」
「……うっ」
急に涙が溢れてきた。先生の言葉がひどく胸に刺さったのだ。先生はその様子をじっと凝視していたが、やがて小さく目を瞑って言った。
「わかったようだな」
もう止まらない。とめどなく涙が溢れていく。保は泣いた。慟哭だった。自分でもこんな声が出るのか驚くくらい野太い声で、保は泣き続けた。
その後、保は延々と自分について語った。子供の頃から鋭い目つきと場違いな大声のせいで、周囲から時に恐れられ、時に攻撃されていたこと。だから自衛のために体を鍛え続けたら、ますます周りから怖がられるようになってしまったこと。大学時代は声がでかすぎることから悪気もないのにパワハラ扱いされ、バイトを辞めざるを得ないこともあったこと。就職活動での印象も悪く、面接に落ち続けた末ようやく内定した会社はコロナ禍のために倒産し、結局大学を卒業してフリーターにならざるを得なかったこと。先生は保の話を静かに、ただ相槌を打ちながら聞き続けていた。
「まあ、それでも自分、大学時代は楽しかったですよ」
保は遠い目をしながらつぶやいた。
「プロレス同好会に入ってたんですけどね。新歓で勧誘されて、絶対向いてるからって。要はヒールに向いてるってことなんですけど。あれは嬉しかったですね。目を剥いて雄叫びをあげるほど皆喜んでくれたんで。あれだけ誰かに喜んでもらったこと、人生で初めてだったんじゃないかな」
「ほう」と言って、先生の目が興味深げに光る。
「さすがに本職のプロレスラーになる勇気はなかったですけどね。友達には『消費者金融にでも勤めれば』とか言われるんですけど、やっぱり誰かのためになる仕事がいいじゃないですか。かと言って臆病なんで、警察とか自衛官とかは嫌なんですよ。プロレスはプロレスだからよかったんです……ああ、なんか……」
そこで保はハッと我に返り、いかつい肩を竦める。
「なんか自分、ベラベラと喋り過ぎましたね……すみません……」
「古代インドに、」と先生が口を開いた。その目は据わり、爛々と輝いている。
「クベーラなる鬼の王あり。その姿形恐ろしげなれど、その性質いたって穏やかにして、財福の神として崇められた。仏教ではその魁偉なる姿形と敬虔なる心根が大いに重んじられ、護法善神として四天王の長となった。ちなみに古代インドで鬼を夜叉(ヤクシャ)と言い、仏教でクベーラを多聞天という」
「……多聞天?」
「そう。すなわち、水天、弁財天とともに三位一体の大黒天をなす者なり。水天は容姿端麗なれど血気盛んな修羅の神。言ってみれば多聞天とは真逆の存在だ。お前さんに聞いてみよう。もし、水天と多聞天が戦ったとしたら、」
先生は意味ありげに笑った。
「どちらが強いと思う?」
「え?」
突拍子も無い質問に、保は一瞬、目を白黒させる。
「……いくら顔が怖くても平和主義者な分、多聞天の方が負けるんじゃないでしょうか……」
「それは蓋を開けてのお楽しみだ」
先生はすっくと立ち上がり、池の方を見つめた。保が自分語りをしているうちに時が経ち、夜空がだいぶ白んできている。保が昨朝目の当たりにした、空と山が一体となって青く融けあう時間がすぐそこまで来ているようだ。
「そういえば、お前さんにはもう話したかな?」
先生は振り向かず、池を凝視したままに問う。
「山際のこの土地が、なぜ『青海(あおみ)』と呼ばれるのかを」
「……いえ」
「元はといえば、この池に由来するそうだ」
「……ぃっ!」
保は思わず言葉を失った。
池の向こう岸を覆っていたはずの山林は、夜明け前の青い闇に溶けたまま消え失せ、代わりに広い空が見えている。そして池の向こうに、広大な湖が広がっているのである。
保はさらに目を凝らし、池の彼方の光景を検視する。そして大きく叫んだ。
「そんなバカな!」
保は堪えきれず地面に降り、裸足のまま橋の上を駆け始めた。
保が今駆けている橋は、中の島で終わっているはずだ。それが、なぜか島の向こうまで続いている。池の向こうに広がる湖上を突っ切り、そのはるか彼方の青い闇の中へ——
中の島が近づいてきた。拝火の炎は未だ煌々と燃え続け、社の前では沙羅が相変わらず一心不乱に祈りを捧げている。
その時、沙羅がガクッと横に倒れた。
そして保の両足が急にズシッと重くなった。
「……ぇっ?」
バランスを失って前につんのめりそうになったが、保は懸命に耐える。急に重くなったのは両足だけではない。頭も両手も肩も背中も、体中に鉛が入ったような感触だ。
「色々と時間切れだな」
先生がゆっくりと近づいて来た。
「沙羅はさすがに『おねむ』の時間か。お前さんは蘇摩茶の効果切れだ。強烈なカフェインみたいなもんだからな。切れた時はガクッとくる。まあ、一晩寝れば元通りになるよ。これでよく寝られるだろう。そして、」
先生は中の島の向こうを見て言った。
「夜明けの時間だ。逢魔時は終わった」
池の向こうでは、元通りの山林の枝葉が、少しずつ強まっていく朝の光の中で輪郭を露わにしつつあった。
「大成功だな。この息苦しい末法の世に、とうとうどでかい風穴が空いたぞ」
先生はそう言って眠りこけている沙羅を抱え、背中に背負い込むと、呆然と立ち尽くしている保の横を通りしなに、
「さあ、戻って昼まで寝てくれ。明日からがいよいよ本番だぞ」
そう言って、寺の方へと橋を引き返して行った。
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