終わりなき問い、二つの覚悟

 「表現の不自由展・その後」が再開した。抽選で60人が中に入った。彼らは何を思ったんだろう。夜のニュースはインタビュー映像を流していたけれど、「よくは思わなかったよ」と言うおじさんの意見も、彼がしっかり見て感じた意見ならそれでいいと思う。展示内容も見ていない人は、何もいう資格は無いと、私は最初っから思っていた。だからまだ見ていない私は本当に何もいう資格はない。それを自覚した上で発言するわけだけど、実際に見た人には勝てるはずもない。それくらいの覚悟で発言すれば、この社会からどれだけ無責任な感情論は消えるのだろうか。


 この2ヶ月間、表現の自由について考えている。とても難しく、今に始まった事ではないので、答えなんてすぐ出るわけはない。何事にも疑ってしまう癖がついてしまったので、出た答えらしきものに必死に首を振り続けた。そして同時に、ヘイトという概念についても考える。どうして特定の人をラベリングして非難したがる。どうして右と左に分かれて、お互い堂々としている。どうして余裕で暴言を吐ける。何度も思い出すけれど、スパイク・リーが掲げた「LOVE HATE」のリング。あれが私の中で一つの希望となって、常に頭の片隅に存在している。両者は一直線上に並んでいるのかもしれないな、と。


 私はどうしても、自分は少しラッキーだったと思わざるを得ない。まさに今勉強している文化と政治を巡る問題であるし、去年からアートに触れる機会が増え、それはただの「芸術」ではなく大きな思想を含む壮大なものだということも知った。そんな私の教養の一つ一つがこの問題をすくい取り、再構成しながら自分の考えや答えを探している。ツイッターのリプ欄を見るだけで泣き出しそうになるくらい、無責任な感情論であふれている中で、私は決めたことがある。

 一つは「ヘイトはヘイトで返さない」。分断されたものに対して、それをすくい取るような、一つに何とかまとめられるように、私はヘイトでさえも耳を向けたい。もう一つは「教養を武器に」。今回の経験はこんな私でも深刻な考える題材になったし、今後への危機感をひしひし感じながらどこか他人事には思えずにいる。表現の自由を考える中で、武器になるのは教養であり知識であるだろう。それがないと独りよがりな感情論になってしまう。表現の自由の有無は時代の感情によって左右されるものである中で、揺らぎのないものは知識であり経験であるだろう。今回も歴史や法的な知識があったらさらに思考を深めることができるに違いない。そうして培った知識を武器に、表現者として発信者としていつか活動するときの肥やしにする。もし全く違うフィールドにいたとしても、教養はどんな状況下でも武器になるだろう。少なくとも社会問題に対して無責任な感情でリプ欄に書き込むことはない。私はそんな人になりたくないんだ。
「表現の不自由展」をめぐる問題は、大学三年生の私に大きなきっかけを与えてくれた。考えは尽きない。問題は終わらない。常に疑いながら、焦らずじっくりと探し求めていきたい。

#表現のこれから

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