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《バッタの夕食会@2022秋》~ぼくだけのFESTAまつもと・その1

★1~構成

『バッタの夕食会』というお芝居は、まつもと市民芸術館が擁する劇団『TCアルプ』のレパートリーとなる演目で、2022年7月に初演したボードビル形式のお芝居です。

『ボードビル』とはウェブ辞書『コトバンク』で調べると、『歌、踊り、寸劇などを雑然と組み合わせた大衆的な娯楽演芸』のことを言います。

7月に3回公演されたのですが、その3回ともが組み合わせの違う内容だったと言います。

わたしは2022年10月に十日間あまり行われた演劇祭『FASTA松本2022』の際に行われた『バッタの夕食会』に足を運びました。

何しろ、公演のたびに組み合わせを変えて行われるボードビル形式ですので、記録の意味も込めて、2022年10月時点での『バッタの夕食会』が組み合わせた演目の並び順を下に記しておきましょう。

《バッタの夕食会@2022.10の構成》

【1】異言語を話す3人の男

【2】《もぐる》2人~もぐら

【3】合奏①

【4】船長のエピソード

【5】怪盗Z(古美術商ミューラ)

【6】凶暴な2人の二重唱

【7】漁師の語り(武居卓◎)

【8】下地尚子の独唱

【9】探偵とシンガー(下地)

【10】3羽のかもめ

【11】犬の国(6人編成)~ユニゾンの語り

【12】女王の冠~ダンス(白仮面)

【13】探偵≒怪盗の入れ替わり

【14】かもめパート2=三重唱

【はじめての暗転】

【15】テーブルに魚。枠だけのドア。
   やりなおし⇒やりなおし2
   ⇒出発の合図
【16~終】合奏2

演目の羅列だけでは何を意味しているのか、観劇していないひとには分からないでしょうが、今後『バッタの夕食会』の上演のたびに記録を継続していけば、はじめて意義が生まれてくると思い、簡単な覚え書きになりますが、記録しておきたいと思います。

次に『バッタの夕食会@2022.10』を観た、わたしの感想を述べておきます。

★2~感想

『ボードビル形式』ということで、確かに寸劇ありブラスバンド演奏ありと雑多な演目の組み合わせでした。

演者たち総出でのブラスバンドの演奏や、ユーモアを感じさせる寸劇などから、これが『あまり深刻にならずに楽しむ、演劇のおもちゃ箱』のような性質を帯びていることがわかりました。

場内は歓声、笑いが絶えず起きていて、観客は楽しんでいるようでした。

ただわたしはと言うと、『これは一体、何を見せられているのだろう?』という疑念が晴れないままでした。
『まあまあ、そう深刻にならずに、一緒に楽しもうじゃないか』という姿勢が打ち出されていたのはわかりました。

しかし何を楽しめばよかったのでしょうか?

脈絡なく繰り出される寸劇や演奏を《刹那的》に楽しめ、ということなのでしょうか。
《一貫性を求めるような、真面目な態度を笑う》という点では、《ポストモダン》なお芝居なのかもしれません。
『そう真面目になるなよ』と。

その脱=真面目な刹那的アティチュードは、日常の真面目さを脱=構築した《批評的な・相対化する》仕草なのかもしれません。

あるいは演劇に求められがちな『大きな構えの物語』を批判的にまなざして演じられている仕草なのかも知れません。

何にせよ、わたしは『バッタの夕食会』からは締め出されているのを強く感じました。
わたしは『バッタの夕食会』の観客ではなかったのです。


★3~作り手の自由、観客の不自由


しかしそれにしては不思議です。

というのも、この『バッタの夕食会』は劇団TCアルプで継続的に演じられる演目だというのです。
演じられるそのたびに、『バッタの夕食会』を構成する演目群は『可変的に・変えられる』のだそうです。

ならば、その『自在さ』は演じ手にとって『創造的なプロセス』でしょう。
毎回毎回、違う試みをしながら、演目として練り上げられていく。
台本に縛られない自由さを、演じ手は手にするのでしょう。

不思議だと先に言ったのは、その『自由さ』は、実のところ観客にとって何も意味しないからです。
なぜなら、自在に組み立てられた演目の『自由さ』は、観客にとっては感知できるものではなく、ただその演目を『一貫性を求めず・刹那的に』楽しむことしか許されないからです。
むしろ観客だけが、その演目の『自由さ・自在さ』から締め出されているのではないでしょうか?

『演目をどう受け止めるか、それは観客の自由にゆだねられている』
演じる者はかならずそう言います。
自由は観客にこそあるのだと。
それでいて演目が練り上げられている『自在なプロセス』は、観客にとって『ブラックボックス』なのです。
それでいて、完成したものの解釈は『観客の自由』だと言う。

このとき、『作り手の自由』と『観客の自由』には亀裂が走っていて、お互いは自由にそっぽを向いているのです。

これは演じる側/観る側の関係として『幸福』な亀裂なのでしょうか?


★4~亀裂を埋めるために


わたしは今回はじめて『バッタの夕食会』を鑑賞して、『芝居の自在さから締め出された』思いがしたのは先に述べたとおりです。

だからこそわたしは出来る限り、可能な限り、これからも『バッタの夕食会』が上演されるたびに、足を運ぼうと決意しました。

わたしは『バッタの夕食会』が観客に呈示する『真面目に考えず・刹那的に楽しもうじゃないか』というスタンスをあえて受け入れず、『真面目に・継続的に』立ち会っていこうと思うのです。

そうしなければ『バッタの夕食会』がはらむ『自在さ』は観客として感知できないからです。

真面目にならず・刹那的に楽しむ観客にとって、『バッタの夕食会』は毎回毎回変化する演目の並びと、その結果現れるその都度の効果など、どうでもいいのでしょう。
刹那的にアプローチするとはそういうことです。

刹那的に対応するよう求められる観客は、その『差異・違い』に反応しない。
そのとき演じ手の『自由』だけが確保されている。

それに対してわたしは、出来うる限り『バッタの夕食会』の、その都度の違いを記録し続けるでしょう。
継続的に、差異に敏感になり、記録していく。

無粋なアプローチであることは自覚しています。
しかしそれがわたしの『バッタの夕食会』への『批評的な接遇』なのです。

わたしは以前、串田和美氏がまつもと市民芸術館の総監督になって20年、《観客を育てられなかった》と言いました。
しかしそれは間違いでした。
実際、一定程度の《観客=ファン》が形成されたことは、今回の演劇祭《FESTA松本2022》のいくつかの公演に足を運んで気づいたことです。

しかしわたしの言う《育つべき観客》とは、ただ演目に足を運び、漠然と芝居を見て、せいぜい『面白かった』とSNSで発信するだけでのファンとは違います。

『演劇の街・まつもと』を形成する観客として《成熟していく》市民はそこにはいない。
芝居・演劇への熟した観点を有していく・目覚めていく市民が。
そんな市民の厚い層が生まれてこそ、松本は演劇の街になり、観客としての市民がいる、と言えるのではないでしょうか。

しかし、わたしのような半可通が、こんな聞いた風な口をきかねばならないのは奇妙なことです。
わたし自身、正直なところ、松本が成熟した演劇の街になるにはどうしたらいいか、わかってはいないのです。
わたしの提案する《成熟した観客》という観点も独善的なものかもしれません。

しかし、そうは言っても、わたしは現状に満足してはいません。
こうなったらいいな、と思い描くのはひとそれぞれでしょうけれど、現時点でそれが実現している状態だとは思いません。

わたしがこれまで生きてきて手に入れていた技は、《言葉で発破をかけること》だと思っています。
関係者や松本市民にはあまり耳ざわりのよい言葉ではないとわかりつつ、ここに意見を記しておきたいと思う次第です。

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