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自分の得になりそうな人に媚びる。

この歳になるまで、好き勝手に生きてきた。

毎日自分がやりたい仕事ができているし、尊敬する仲間もいる。日常のほぼすべてを仕事にさいているから興味の対象の多くが「仕事」になってしまうんだけど、自分にとって仕事は義務じゃない。俺が持っている能力に報酬をくれる人がいるから全力で応えようと思っている。つまり、人格を認めてもらっている。

だからただお金を儲けて得をしたいなどと思ったことはない。こういう考えの人は決してお金持ちにはなれないから負け惜しみに聞こえたらそれでもいいんだけど、これはもう「信じる宗教の違い」だからどうしようもない。俺の信仰の対象は、お金ではない。

好きなときに好きなところに遊びに行けたり、好きな人と好きな写真を撮って、好きなモノを食べて、欲しいモノを買う。それができている今、それ以上の贅沢なんて何もいらない。生活が、足りているのだ。

『ロバート・ツルッパゲとの対話』には、全編そればかりを書いた。生きていく上で一番重要な、絶対に変化しない普遍的な価値とは何か。大切な価値をないがしろにして他人を騙したり、損得で動く人の悲しさを描いた。これを書いたことで、俺が今後つきあう人とそうでない人との境界線がハッキリ表明できたんじゃないかと思う。

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儲けるために何かをしている人は、儲からなくなったときに価値がゼロになる。しかし自分が好きなことをしているだけなのに、たくさんのお金をもらうことはある。俺の尊敬する友人はみんなそういう人だ。たとえ彼らが無一文になっても俺の評価は何も変わらない。「才能」は日経平均株価のような外部からのチカラによってまったく変化しないからだ。

「才能」がない人は、誰かを騙して得をしようとする。俺は他人を騙す人にはなりたくないと思っているからそこに免疫がなく、よく騙される。得をしたい人の欲望がわからないからカジュアルに騙される。でもそれでいいのだ。

昔、ある仕事の権利問題でモメたことがある。俺のデザインが転用されたが、最終的に争う気にはならなかった。便宜的に権利者として収入の明細が毎月送られてくる。相手が受け取っていたのは巨額だったけど、そんなモノの分け前が欲しいとはまったく思わなかった。

その話を聞いた友人が、「お前はその気になればまた別のモノを作る能力があるから、関係ないよね」と言った。そうなのだ。俺の興味は相手が俺の能力を求めてくれて、それに応えたことで報酬をもらって不自由のない生活が送れればそれだけでいい。

すでに持っている他人の手柄にあやかりたい人や、マージンで稼ぐ人のように誰かを出し抜き、嘘をつき、つねに自分の得になりそうな人に媚びなくてもいい。そんな貧しい思考回路を持たなくていいのは、とても健康的な生活だと思っている。






多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。