ワード

マンションから始まる差別。

差別の構成要素には「意図的な嘘」と「無知」のふたつがある。

ナチスや戦時中の日本を始めとした多くの国がしたように、自分たちは優れた国民であり、劣等で野蛮な国を支配する立場だという為政者の考え、この「意図的な嘘」は景気の閉塞感から自国民の目をそらすためによく使われる。

それに「そうだそうだ」と不用意に乗ってしまうのが無知であり「俺たちが不遇なのは移民の責任」と、まんまと政治に利用される。「アメリカをもう一度GREATな国にしよう」というトランプのスローガンにも明確にそれがある。

アメリカは偉大なのか、過去に偉大だったのか、なぜ没落したのか、客観的に今は世界でどのポジションを担っているのか、そこをまったく考慮も反省もせず、物語を単純化してしまう。

無知とは知らないことだけど、この前も「日本人だけが四季の豊かさを知っている」というような話になった。それはカナダにもフランスにもどこにでもある。自分が体験したことがなく、知らないことは「ない」と思っていることが無知だ。

知らないことによる差別はいつまでもなくならないし、それは別の問題なんだけど、知れば済むことを知らずにいる怠惰は責めるべきではなく、知らないことに立脚して批判に転じる神経のみを疑う。

日本には国境を接した国がないことから、世界でも危機感の少ない国に分類されると思うけど、近隣に10の国があるとする。10の国民が相手を敵と見なさなければ済むところ、わざわざ敵である理由を作り始める。

俺は政治の話をしていない。我々、無知なマンションの住人が隣の部屋の人のことを悪く言い始める日常的な精神構造のことを言っている。そこで必要なキーワードは「寛容さ」で、ゴミの出し方が気にくわないとか、音がうるさいなどと言う人は、自分が似たようなことをしていることについては一切認めないし想像力を持たない。

だから俺個人は寛容じゃない人とはつきあわないようにしている。その小さなマンションでの話が「中国人だから」などとどんどん加速していくんだし、よく見てみると大きな人種差別を言う人は、小さなコンビニ店員の態度などに対しても裁判官のように断罪し続けている。

差別は「される側に立ったとき」に初めてわかる。とてもイヤな話だけど、アングロサクソンの兵士が他国の兵士を殺したときの話を聞いたことがある。自分と似たような顔をした兵士を殺すことにとても抵抗があったという。それは軍人の悲しさとしてよくわかるんだけど、驚いたのはそのあと。

「自分と共通点のないアジア人を殺すのはなんともなかったね」と言ったのである。

多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。