カメラが暴力になる。:写真の部屋
この記事を読んで、ウンザリした。
誰もがスマホを持つようになり、そこで起きたことが善悪にかかわらず記録されていくんだけど、俺たちは写真が職業だから、「何を撮って、何を撮らないか」を決めている。
これを撮ったら、あれを撮ったことに整合性がなくなる、という事態が起こりうる。事故や災害はそれを知らしめるために報道カメラマンが撮る。悲惨な戦争も被災地も世界に伝える義務があるからだ。ただしその人が政治的でも経済的でも、戦争や差別にかかわる人からそれを助長するための仕事を引き受けていたとすれば、まったく説得力がなくなる。だから広告写真家とジャーナリストは兼業できない。
くだらなすぎて本当は書く気にもならないんだけど、スマホやカメラを持ったことくらいでジャーナリスト気取りになるのはやめておいた方がいい。地元で事件や事故があるとそれを撮ってSNSにアップする田舎の野次馬がいる。またこれも最悪なんだけど、それを見たテレビ局などが「この映像をニュースで使わせてもらえないでしょうか」などとコメントを書く。
バカの堂々巡りだ。
俺たちの世代は(世代なのかな)、たとえば葬式をしている家の前を通るときには大騒ぎしないとか、救急車が誰かを運ぼうとしているところをジロジロ見ないとかいう教育を当たり前のように受けてきた。だから近所で何かがあったからといってスマホを持って出かけていく神経がわからない。これはもう育ちやインテリジェンスの問題と言ってしまってもいいかもしれない。やはり世代ではないな。
自分の子どもや親や友人がどこかで事故に遭って血を流して倒れているところに、通りがかりの野次馬がスマホを向けている。これを許せる家族なんてどこにもいないだろう。それを自分のことだと思って想像してみろと思うのだが、それが想像できる人は元々そうしないんだから言ってもムダだ。
こういうことを「たまにする」という人はいない。事故を見つければ撮る人か、一生に一度もやらない人のどちらかしか存在ないのだ。俺たちはカメラを持つことで生活している。だから、写真を撮ることをナメている人を見ると腹が立つ。そこに表現の自由なんてないし、普段撮っている写真を全部否定してあげるよ。
多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。