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干し柿事件:ロバート・ツルッパゲとの対話

友人から面白い計画を聞いた。そんなくだらない遊びがあったのかと驚く。

彼女はつねに世界中を飛び回っているんだけど、それを「飛び回っている」と主張するような田舎くささは持っていない。自分が見たいモノがあれば高円寺だろうがケニアだろうが、まったく同列に「行ってくるよ」と出かけていく。

『ロバート・ツルッパゲとの対話』に、少ない点では星座を描けない、と書いた。ケニアとモロッコは、土屋太鳳さんと田尾監督くらい別のモノだから、アフリカとはこういう世界だと結論づける根拠のためにケニアとモロッコで線を結ぼうとしたら、星の点が遠すぎる。じゃあどんなことでも全部の星を見ないとわからないのかと言われるかもしれないけど、まったくその通り。スライムを一度も握ったことがない人間に、あの感触を説明することは不可能だろう。

だから、語り得ないことについては黙っておけ、と例のウィーンの富裕層も言ったのだ。語ることはできるが、そこには何も価値が生まれない。

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友人はそれを「田舎くささ」と言ったが、それは、「私は田舎で育ちました、だからライブも展覧会もイベントも地元には来ない。テレビや雑誌にはたくさんの情報が載っているのにうちには何も来ない」という怨念育ちが、都会に出てきてから多くの情報を手に入れたと勘違いさせる。

あなたと世界との距離は住む場所が変わっても、何も変わっていない。恵比寿に住んでいる人が、代官山でやっているライブに行かなかったとしたら、それは距離と関係なく、元々なかったモノと同じだ。

その逆に「コスモポリタン」というあまり最近聞かなくなった表現がある。これだけネットが普及して、もう自分と世界との距離は変わらない、などと言わなくてもわかるよな、ってことかもしれない。そもそもが怨念育ちじゃない人は茅ヶ崎であろうがマルセイユであろうが何も考えずに遊びに行く。今の気分だと、どちらの海が見たいか、というだけの等質の選択だから。

それは俺が過去に体験した「干し柿事件」を例にして、『ロバート・ツルッパゲとの対話』に書いておいたから、読んで欲しい。


多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。