裸のダンサー。完結編へ。

窓の外は暗くなっていた。予定通り、これから食事に誘おうと思ったが今度はどんな店にするかで迷う。店選びは勝手に決めない方がいい。好き嫌いもあるし、直前に何を食べたかわからないからだ。

「ジルは、お昼に何を食べたの」
「パスタを食べたよ。先生は何を食べた」

ジルは俺を先生と呼んだ。ダンス公演に連れて行ってくれた友人が、楽屋で俺のことを「こいつは先生」と紹介したからだ。

「俺もパスタを食べた。じゃあパスタ以外の店に行こうか」

ジルはじっと俺の目を見てこう言った。

「パスタ以外というか、食事以外のところでもいいんだよ」

俺より10歳は下の女の子の言葉に、先生は固まっていた。

「愛情を感じてしまった」と、失態のように言ったのには理由がある。俺はできるだけ冷静に目の前の被写体にレンズを向けたい。だからモデルになる人に恋愛感情のようなものは持ちたくないとつねに思っていた。

あるロケの時、数人のモデルがいるロケバスに乗り込もうとしたら全員が気まずそうな顔をして話をやめたことがあった。たぶん俺の噂話をしていたのだとすぐにわかった。あとで、その中では一番仲の良いモデルに何の話をしていたのかを聞くと、「あの人は仕事で知り合ったモデルを個人的に誘ったりしないよね」という内容だったそうだ。

多くのカメラマンは食事に行こう、遊びに行こうとしつこいくらいに言ってくるから、先生はおそらく男性が好きなんじゃないかと話していた、と。

今になってみるとそれはただの強がりで、そんなストイックでつまらない戒めがくだらなく感じるほど魅力的な女性に出会っていなかっただけなのだと知った。撮影ではあるけれど個人的に会った最初の日に、ジルがそのルールを壊してくれた。

俺たちは仕事場を出て渋谷駅を越え、深く濃い藍色の空を見上げながら桜丘の坂をのぼって行った。俺は自分が30代であることが信じられなかった。まるで中学生が好きな女の子と初めて竹下通りを歩くような気持ちに似ていた。隣を歩いているジルは中学生には見えない。子供なのは俺だけだ。

坂の途中にある大きな高層ホテルを予約しておいた。部屋は28階で、窓からは渋谷どころか東京のすべての街の灯りが見渡せるのではないかと思うほどだった。

「綺麗だね、ジル」
「うん。あの光のひとつひとつに人が住んでいるんでしょ。気持ちがたくさんあるんだね」

俺はずいぶん昔に読んだ本にあった言葉を思い出した。写真と言葉が並んだ、エッセイと写真集の中間のような藤原新也さんの本だ。そこにインドだかイスタンブールの娼婦が言ったという言葉が載っていた。
『人間は肉でしょ。気持ちいっぱいあるでしょ』

人の気持ちをたくさん見つけることができる人は優しいと思う。俺は街の灯りを見下ろしながら、ジルを背中から抱きしめた。数分は黙ってそうしていたように思う。しばらくして俺はまた中学生の男の子のようになってしまい、ホテルの高層階で女性を抱きしめていることに気恥ずかしさを感じて、
「ジル、お腹はすいてないの」と聞いた。

ジルは「先生、ずっと黙ってこうしていてもいいんだよ。私は今のこの時間がとても好き」と言った。

その少し前に別れてしまった彼女は、あまりにも忙しくデートの時間もとれない俺とはうまくいかないタイプだった。彼女はいつも俺に食事や遊びに行く場所を決めさせたがったし、そういうことをしてもらうのが楽しみな女性だった。俺はいつしかそれに疲れてしまって、自分がやりたい仕事や夢と彼女がまるで関係ないどころか、障害に感じることさえあった。

今この部屋に一緒にいる女の子は自分の夢を持っていて、やりたいことをごく自然に、自由に口にする。俺はジルより10年以上「何かを我慢することの先輩」になっていたのだ。それに気づいた恥ずかしさは年齢の違いを忘れさせてくれたし、愛おしさにもつながった。俺も自由に思ったことを言おう。

「ジル、俺はこの部屋みたいに、いつも同じひとつの箱にいるふたりになりたい」
「先生、初めて自分の気持ちを正直に言ったね」

後ろ向きのジルは俺の腕の中でくるっと回って、俺にキスをした。渋谷の上空180メートルくらいに浮かぶ四角い部屋には、気持ちがいっぱいあった。その時だけはジルも中学生みたいに見えた。

この前後を含む全編をひとつにまとめた完結編は、定期購読マガジン「博士の普通の愛情」で。
https://note.mu/aniwatanabe/n/ncb4d5abf76ed


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