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ウンコと、ルブタン。 (無料記事)

写真に写っているモノの価値、という問題がある。

たとえば誰かがミック・ジャガーのポートレートを撮ったとしよう。その写真を見た人が、「スゴいですね」と言う。その「スゴい」という言葉は、ミック・ジャガーにかかっている。写真の良さについてではない。

無名のミュージシャンを撮った写真を見せられたときとは明らかに反応が違うはずだ。日本語に訳しにくい「recognition」という言葉がある。認識とでもいうんだろうか。

有名な人の顔は、無名の人よりも認識が速いと言われている。見たことがない人の顔は、ヒゲの生えた、小太りで、50代くらいで、と、ひとつずつ認識していかないといけない。ミック・ジャガーであれば見た瞬間に「ミックだ」とrecognizeできる。わかるというのは理解だから安心感が生まれる。広告にタレントを使うのも、その認知速度にある。

15秒のCMで、その人が誰かを認識するのに5秒かかってはムダなのである。その認知の速さと確かさにクライアントは巨額のギャラを払っている。

広告はそれでいい。写真を作品であると定義した場合は、誰が写っていようと構わない。認知に時間がかけられるからだ。むしろ知らない人が写っていたほうが想像の余地があるだろう。もちろん優秀な写真が撮ったミック・ジャガーのポートレートはもっと価値があるかもしれないけど、それはそれでいいのだ。

写真の価値は写っているモデルや出来事とは別のところにある。「ミック・ジャガーのポートレートを撮ったんですね。スゴいですね」というのは、あなたはミックを撮れるほどのカメラマンなんですねということしか言っていない。ただのミーハーなのである。

写っているモノが珍しければいいなら、写真を撮ることよりもそれを探すことの方が大事になる。写っているのが、ウンコでもルブタンでも、高尾山でも富士山でも、いい写真の概念は平等に存在できる。

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多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。