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第一回:幡野広志

インタビューの一人目は誰かと考えました。どんなことでも最初って肝心ですから。

俺はカメラを買うと一枚目の「0001.jpg」は、亡くなった父親からもらったお守りを必ず撮ることにしています。その新しいカメラが俺にいい写真を撮らせてくれますように、っていうおまじないです。

高校生の時に俺が写真をやりたいと言うと父は、キヤノンのF-1と300mm f2.8、55mm f1.2というのを買ってくれました。今考えると中間がなさすぎます。道具としては高校生には豚に真珠、まるでプロカメラマンみたいですけど「能力の無さを道具のせいにしないように」という父の教育だったと思っています。

だから俺が現在でも写真を撮っている原点という意味での「写真の神様」はアーヴィング・ペンでもリチャード・アヴェドンでもなく、俺の父親なんです。

デザインを仕事にしたことでしばらく遠ざかり、40代でまた本格的に写真を撮るようになりました。その頃、父のことをよく思い出しました。生きている間に自分の「写真の神様」であるはずの父の写真を一枚も撮れなかったことへの後悔です。病気になって入院したときも、そこで写真を撮るのは完全に「なくなってしまう思い出」を残そうとしていることが明らかになりますから恐ろしくて無理でした。でも今となると撮っておけばよかったなと思っています。

写真を語るとき、安っぽい美辞麗句で彩られることが多いのが苦手です。写真というのは本当は撮像素子のスキャンかフィルムと現像液の化学反応ですから、冷たくロジカルで科学的。だからこそ、そこに封じ込めようとした人々の感情が、当事者には痛いほど伝わるのだと思っています。

数年前に、ある写真家の写真をネットで観ました。幡野広志。肩書きは猟師・写真家、と書かれています。カナダ人みたいなライフスタイルだなと思いました。彼を知るほど、その「日本人離れ」という印象が外れていなかったとわかりました。ブログを読んでいると、銃で動物を撃つこと、命を奪うこと、それを食べて生きること、そして写真に記録することから鍛えられた哲学的な目はオシャレや洗練とはほど遠いですが、ゴツく骨太で筋が通っていると感じました。

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メールなどでしばらくやり取りをしていましたが、2016年の東京デザインウィークで行われた俺の写真展に幡野さんが来てくれました。思っていたとおり熊のような体格と優しく真面目そうな目と、力強い握手が印象的でした。想像通りの人でした。

前にも書いたことがありますけど、幡野さんが動物の写真を出したとき「残酷だ」とネットのコメントに書かれたことがありました。幡野さんがどれだけ命のことを考えているかを知らず、実体験のない正義感を持ち出す人もいるんだなと悲しくなったことを憶えています。

俺たちはそれが動物の死体であると気づかないような加工をされ、言わば目隠しをされたように肉を食べています。その命を無視した態度の方がよっぽど残酷ではないでしょうか。

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ーーー 幡野さん、狩猟の楽しさを教えてください。

狩猟の楽しさは肉を食べるという行為の一部ではなく全部に関われることだと思います。食べるためと思われがちですが、僕は肉を得るよりも思考を得られることの方が楽しいです。

好みの違いはありますが、一般的な感覚として野生肉はスーパーに並ぶ食肉に品質で劣ります。乱暴に言うとマズイです。火を通すとすぐに固くなってしまうため、プロの料理人でないと野生肉の良さを引き出すのが難しいと言ったほうが正しいのかもしれません。

銃弾を当てる部位や絶命するまでの時間で恐怖感やストレス度合いが変わり、肉質が変わります。血抜きや解体技術が低いと肉質が大きく損なわれ、動物の年齢性別、食性や運動量でも大きく味が変わります。

食べるためだけに育成された動物は運動量やエサも人間にとって都合よく管理され、肉質を損なわないように絶命させる方法や解体場も確立され、工業製品のように一定の品質を保ちます。スーパーで手羽先のパックを見ているとコピペしたように揃えられて毎回驚きます。

このシステムの恩恵で素人でも簡単に扱える、柔らかく美味しい肉が安価で簡単に購入できるようになっています。

これを批判するつもりは僕は全くなくて、扱いが難しく味や品質が不安定な肉を高価に流通させるよりいいと思ってます。日本人が極端に飢えずにいられるのはこの生産流通システムのおかげだと思います。

ただこのシステムには弊害があります。
肉を食べるということがどういうことか想像できない人を量産してしまったことです。動物の尊厳に気づかない人が多くなってしまいました。

鉄砲を担いで山に入って動物を探し、シカやイノシシなど人間の体よりも大きい動物に狙いを定めて撃ち、解体して食べます。この全ての工程に関わることで、命を食べるということを理解だけでなく体験することで、思慮深くなることができます。狩猟をすることで人間が生きるということを知ることができます。

ーーー 狩猟と写真とは何が違いますか。

どんなに綺麗事を言おうと狩猟は命を奪う行為です。写真は事象を誰かに伝えたいという表現行為だと思います。大きな違いはここですが、この2つは平行線ではなくクロスします。

狩猟と写真の違いは探すのが難しいぐらいどちらも非常によく似ています。銃を撃つことも写真を撮ることもShootingです。銃の方が発明されたのが先ですから、写真を後付けでShootにしたのだと思います。

「写真撮るのって銃に似てるからShootでいんじゃね?」と当時の人が言ったら。「You アッタマいいなー。Meも同じこと思ってたよ。」と賛同した人が多かった結果でしょう。

道具は何かをするための手段です、所持することが目的ではありません。カメラの話と写真の話が違うように、鉄砲と狩猟の話も違います。それをごちゃ混ぜにしている人が多いところも似ています。

アボリジニの壁画に動物が描かれています。狩猟をしていたことを誰かに伝えたかったのでしょう。アボリジニだけでなく世界中の国や地域で大昔から狩猟をして、様々な方法で後世に伝えています。

そんな太古の人間の気持ちが少しだけわかります。僕が原始人レベルというわけでなく、狩猟と写真は人間の本質なのではないでしょうか。

ーーー 残るのは肉と写真とどちらが重要でしょう。

長い目で見れば写真でしょう。壁画のように何百年も残すことができます。
しかし写真は生きていなければ撮れません、生きるためには肉が必要です。

もちろんスーパーの肉でも魚でも果物でも野菜でもいいのですが、食べるというのは生きることです。末期ガン患者が食欲を失うのは、体が死に向かうため食べる必要性がなくなるためです。

僕もガンを患い、あと数年で死ぬことになりますが、僕の撮影した写真を眺めながら玄孫たちが「昔の写真だからまだ平面なんだ、時代だね~。」「ひいひいじいちゃんってガンで亡くなったんだって、いまじゃ信じられないよね。」
という会話を正月にしてくれることを願うばかりです。

写真も肉もどちらも必要なものですが、生きている時間よりも死後の時間の方が圧倒的に長いのでやはり写真の方が重要ですね。

ーーー 人間が写真を発明したのは幸福だったんでしょうか。

幸福だと思います、僕にとっては幸福です。写真家という人生を選んだおかげで死と直面してもやるべきことがあり、落ち着いていられます。

あの世に行ったら写真を発明してくれた人を訪問して直接感謝を伝えようと思います。そしてずっとずっと後から来るであろうSONYのα7を開発してくれた人にも感謝を伝えに行きます。

写真の出現で絵画が表現が進化したように、CGの出現で写真の表現はもっと進化していくと思います。

古代ローマ時代に奴隷が働くことで市民は芸術を楽しみ後世に美術品を残したように、AIが進歩して仕事やお金の価値観も変わり、全ての人が余裕をもって暮らせるようになったとき、どんな写真を後世に伝えようとするのか楽しみです。きっとその時代の紙幣の肖像はホームレス小谷さんになっていると思います、紙幣という存在がなくなっても記念硬貨でも。

“命のバトンを繋げる”という言葉があります。前走者がバトンを大切に傷つけないように次の走者に繋ぐのか、歩きタバコしながらチンピラ歩きで繋ぐのか、何度転んでもボロボロになっても全力疾走で繋ぐのか。

前走者の繋ぎ方で次の走者の走りが変わります。自分の走りを何人も先の走者に伝えることが可能なのが写真です。

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幡野さんの発言に出てきたホームレス小谷は、自分の一日を50円で売っていますが、ネットにアップした日に売り出した全部が売り切れるほどの人気です。幡野さんもホームレス小谷の生き方に興味を持っていて応募しようとしたんですが、間に合わなかったようです。

幡野さんが「ホームレス小谷さんがお見舞いに来てくれるといいな」と言ったので、本人に直接聞いてみることにしました。それが一昨日の話。俺はホームレス小谷に何か便宜を図ってもらったり、お願いをしたことが一度もありません。「今までもこれからもコタにお願いというのはないと思うけど、今回だけはお願いします」とLINEを送ると「明日行ってくるわ」と極限まで軽いフットワーク。これがホームレス小谷の魅力です。

一昨日、幡野さんからホームレス小谷と会いたいと言われ、昨日会って、今日俺はこれを書いています。デジタル社会ってなんという速度なんでしょうか。まるで奇跡です。あとでホームレス小谷に聞くと、なぜかその日だけは予定を入れていなくて、一日だけ空白になっていたのだそうです。

初対面の人を見舞う、という話はあまり聞いたことがありませんが、そこがSNSの良さ。お互いの事情をすでに知っているので、出会いは一瞬です。幡野さんもホームレス小谷も面白い人です。面白さというとふざけることと思われがちですがそうではなく自分がすべきことが世界の常識と違っていても気にしないという意味、独特だということです。

品のない言い方をすれば、誰かの病気や死に関わるトピックはネットニュースなどでもアクセスが多いものです。他人を通して、リアリティを持ちにくい自分の死や、そこから逆に「自分は生きている」と確認したい深層心理だと思います。

ライオンがシマウマを襲って食べる映像などを見ると、なぜか他のシマウマたちがその状況をずっと見ていることがあります。一目散に逃げたらいいと思うんですが仲間が食べられるのを最後まで眺めている。人間は全知全能であるように振る舞ってきましたが、生きること、死ぬことについては実際のところシマウマと同じように何もわかっていません。

俺たちはいつも「退屈な明日が同じように来る」と、まるで無限の命を持っているかのような顔で生きています。幡野さんにとっては限りのある貴重な時間であっても「やることもないしパチンコでもして時間を潰すか」と言う人もいるでしょう。でも「自分は明日も生きているはず」と感じていないと生きていけないものですから仕方がありません。

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幡野さんには小さな息子さんがいます。DNAが未来に繋がったということです。中継ぎ投手のイニング数としては短くなる可能性があっても、試合は永遠に続いていく。

2018年1月11日(写真は黒バックのポートレート以外はすべて幡野さん撮影です)

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多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。