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写真における悲しい出来事。

不真面目には書けない話なので、ちょっと硬い文章になります。ご容赦ください。

写真を撮るためには、対象物を必要とします。そこに何もないと写らないので被写体があって初めて取りかかることができる。つまり写真家は多くの部分で他者の存在に依存しているわけです。それは頭の中にある映像をキャンバスに描くこととは違うと、写真を撮り始めた最初の頃から強く意識していることです。

これは「では自分はどうすべきか」について書くことで、誰かを糾弾する目的ではありません。そう言うとエクスキューズととられる恐れはありますが、興味のある場所は他人ではなく自分だという一点です。

特にSNSで広く写真が流通するようになってからは肖像権侵害、盗撮の問題など、どちらかというと(スマホまで含めた)カメラと写真が持つ危険についての議論が多くなされています。

それは「写真が暴力になってはならない」という当然の議論なので、納得できる答えが出ない問題であろうと、考え続けていくべきだと思っています。

仕事で言うと、依頼したモデルとは使用期限・二次使用などの用途についてある程度の契約がなされています。ビジネスなので用途を逸脱しなければ問題は発生しません。ただ、芸術作品のように仕事以外の個人的な撮影については扱いが曖昧になりやすく、注意しなくてはならないと思っています。

撮影時は用途が未定であったものの、のちにプリントの展示、販売や、出版の対価を得るなど状況が変化した時は前提が変わったことになるのでそれなりの対応が必要です。

ただ、大きな問題はビジネスに関する部分よりも、創作者と被写体の関係にあります。そこには男女の関係やパワーハラスメント、物理的な暴力など、主に「マチズモ」が主題になっているのかもしれません。

圧倒的な世界観を作り出す作家がいて、その世界に登場したいと願うからこそ協力したモデルが、心を持たないトルソーや、ラットのような無力な実験動物として暴力的に扱われ、使い捨てられるのはとても不幸なことです。

今回の話題に「写真評論家などが沈黙しているのは不誠実な態度だ」と糾弾したりもされていますが、そこは少し冷静になった方がいいと感じています。事情も明確ではなく、知ったばかりの出来事にワイドショーのコメンテーターのような瞬発力で答える必要はまったくありません。

これは芸術にとって根源的な問題でもありますから写真を撮る人々は時間をかけて考え、誠意を持って発言すべきでしょう。

「マチズモの誤った表れ方」については慎重になるべきですが、同じ写真を撮る人として自分を例にして考えるしか方法はありません。写真や芸術全般は「常識の虚」を突きながら進化していくので「破壊の概念」と親密で、それが過剰な暴力として表面化することは過去にも多くあったと思います。

凡庸な自分には破壊衝動がまったくないので、破壊を提示する人とは大きくジャンルが違っていると常々思っていました。それが一番わかりやすいのはヌードの撮影方法かもしれません。

ファッション写真が人と服を美しく見せる延長線上に「ゼロの服を着ている姿」としてのヌードがあります。自分が撮りたいと願っているのはそこです。ギリシャ的な考えで時代遅れだとは思いますが。

これは服と裸を要素として並列に置くアプローチなので、セクシャルな衝動とは違います。だから性的な恍惚を連想させる表情やシチュエーションでは撮ろうとしていません。写真の供給先が性的な欲求を持つ男性ではないのだとも感じています。

男性でも女性でもいいのですがカメラの前で誰かに無防備になってもらうためには、たとえ服を着ていても信頼関係が必要です。その信頼が崩れてしまったというのが今回の出来事で悲しさを感じる部分ですが、偶然か意図的かによっても結論は変わってきます。

自分が写真に興味を持った高校生の頃に、荒木さんや末井さん、南伸坊さんたちの表現には大きな影響を受けました。確かに常識の虚を突かれたからです。『写真時代』にはそれまで雑誌で見たこともない写真がこれでもかというほど載っていました。

そこで学んだのは「写真とは自由である」という、それまで自分が住んでいた牧場の柵がなくなった瞬間であり、世界が広くなった体験でした。だから今でも写真を撮っているのです。その影響があるからより心の苦しさが切実です。

具体的な話で恥ずかしいことを告白するなら、今まで多くの人を撮らせてもらったうち、三回だけ自分の意図が伝わらず、不幸な結果に終わったことがあります。

写真はそもそも、ハッピーなものだと思っています。こちらが相手を求めて真剣に撮り、相手も真剣にカメラの前に立ってくれる。ほんの数分しかなくても、国籍や年齢や社会的な立場も何も関係なく、撮った写真を見て喜んでもらえる。その人と深いところで通じ合ったような気持ちになる瞬間は何にも代えがたいものなのです。

そんなハッピーな結末にならなかった一度目は、ある女性の写真を撮った後に起こりました。自分の考えは豪腕の造物主のような作家からしてみたら甘いと言われるかもしれませんが、撮る人と撮られる人が責任を二分し、互いに同じように喜べるのが理想です。

自分の作りたい世界観を実現するために誰かをジオラマのように「使おう」と思ったことはありません。

その時のモデルの女性は、数人の写真家の中から俺を選んでくれて、撮影前には面談をして心情の共有をしました。しかし撮影後にセレクトの方法を巡ってやや感情的になったその人から「私が写っている写真なのですべての権利は私にあり、セレクトも私がする」と言われました。

ギャラをもらってタレントを撮ったわけではないので、責任は半々なのでは、と言うと、彼女はすべての写真のデータを消して欲しいと言いました。

そう言うなら互いに幸福にはなれないので、なかったことにしようと思い、言われたとおりに写真を全部ハードディスクから捨てました。その写真は自分の能力を超えたようにとてもよく写っていました。その写真を消去するのは二度としたくない辛い体験でした。そうなってしまったら友人関係さえも消滅です。

二度目はある名の知れた女優さんでした。パーティのようなプライベートな場所で撮った写真をプレゼントしようとしたのですが、所属事務所からお叱りを受けました。本人の承諾があろうと彼らは所属タレントであり、写真家と女優の間に事務所を介さない関係はあってはならないということなのでしょう。

その時は本当に写真を撮る仕事をやめようと思うほどに落ち込みました。自分が撮りたいと思った写真を撮られた本人が喜んでくれたのに、その関係はビジネスでシャットアウトされる程度のものだったのです。理由は簡単。俺が超一流の有名な写真家ではないからです。そこで「じゃあ有名になってやる」などとは思いませんでした。そうしたら自分もその判断の尺度に染まることになるからです。

三度目は少し知恵がついてきたのでダメージは大きくありませんでしたが、ある女性に呼び出されて撮影の約束をしました。撮影の前日に、それを友人に話したら危険なのでやめた方がいいと言われたそうで、中止になりました。何のことはない。ただ頼まれて、ただ否定されたカタチです。写真を撮る前だったのでそのことはすぐに忘れることができました。

と、自分のくだらない経験を書きましたが、撮る人の撮りたい衝動にはあまり深い意味はなく、商業的な撮影でない限り目的はなく「ただ、撮りたい」だけなのです。目的が整理され洗練されているほど、実は不純なのかもしれませんけど。

今回のことで一番恐れているのは、撮影がしにくくなることです。これは誰にとっても不幸で、たとえば俺が苦手なのは記念写真を撮っているときに「あ、盗撮された」と冗談で言われることです。これだけは本当に我慢がならない。写真を撮ることにはプライドがありますから、いくら軽口だとしても「その魚、腐ってるんじゃない」と板前に言ってはならないのです。

盗撮という言葉がポピュラーになったことで公共の場でカメラを出しにくくもなりました。それと似たようなことが今後起きてくるのが辛いです。たとえば誰かと撮影をしようと言ったときに本人や周囲から「パワハラやセクハラをしないでしょうね」という冗談は必ず出てくると想像ができます。そうなったらもう撮りたくない。

俺の仕事ではない撮影はその三つをのぞけば、すべてが幸福そのものですから、確率としては小さいのですが、気にしないでいられる出来事ではありませんでした。後悔や反省で寝られないほどでしたから。向こうからしてみればこちらにも落ち度があると判断したからそうなったのです。そこに気をつけて、どんな状況でも互いに幸福な撮影ができることを望んでいます。

水原希子さんが仰っていた、撮影時に無関係の社員がぞろぞろ見物にやって来たというのは倫理的にもビジネスとしても論外ですが、そのようなこともあるのでしょう。そこは芸術表現の話ではないので、猛省を。

(追記:あるところで「私は荒木さんというカメラマンの存在はまったく知りませんが」という人が書かれている批判を見ましたが、そういうのはやめましょうよ。自分に無関係なことには沈黙してもいいんです。大喜利をやっているんじゃないですから。よろしくお願いいたします)

多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。