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イベントじゃないときに撮る。

SONYにα9と7R3をメンテナンスに出す。

うまく行けば数時間待ちで混雑していれば翌日、って想像をしたんだけど、その「数時間待ち」を手ぶらで過ごすことができない。だから2台のαを預けた後に写真が撮れるようにLeicaのM10も持って行く。

まあ病気ですね。職業病と言うんだから立派な病名です。

結局出来上がるのは翌日だというので、秋葉原の街をM10で撮りながら帰る。たくさん撮るわけじゃないし、撮らないときもあるけど、目の前で見た出来事に「カメラがないから撮れなかった」と言いたくはない。だからいつも持っている。

「出来事を写真に撮る」と考えていると、写真は表現に向かっていかない。セレモニーやイベントや流行のスポット、名所旧跡を撮るのは記録であって表現とは違う。

ある写真家が、「写真を勉強している人が手っ取り早くできるアルバイトが結婚式などのイベントの派遣カメラマンだけど、それはオススメしない」と言っていた。それを専門の職業にしたいなら別だけど、もし表現するための手段に写真を選んだのなら、やめておいた方がいいと俺も思う。同じカメラを使っていても、やっていることにまったく共通点がない。(※ 太字部分、誤解のないように)

写真の他者からの評価は、写真家が「何をどう撮ったか」の個性にある。どんなものでもいい。マサイ族でも暴走族でも家族でも、テーマは無限にある。他にもそれを撮っている人はいるだろう。だから自分にしかできないやり方で撮る、のが個性。

イベントの写真は何を撮るかが決まっている。さらに「こう撮るべし」「こう撮るとウケがいい」という、仕事の先輩から教えられたルールをおぼえる。何を撮るかという一番大事な選択をしないことをおぼえる。だからいくらその能力が向上しようと、喜ぶのは写っている本人とその友人と親戚だけ。注文が厳しく、求めていることが多い人のために仕事をしよう。

何を撮るべきかわからない、どう撮るべきかわからない、と悩んでいる人の方が自然で、ありとあらゆる方法で撮られた自分以外の人の写真を真面目に見てみれば、自分の写真に価値があるかどうかはわかる。

与えられた状況を定番の方法でうまくこなすことを誰も表現とは呼んでくれないという究極がインスタ映えであり、インスタ映えている人のことを指して「優秀な写真家である」とは言わない。

これを読んでいる人はそんなことはとっくに理解しているだろうと思うけど、カメラ屋さんで店員に「雑誌とか撮ってるカメラマンより、俺たち(ブライダル)の方が現場を踏んでるからさ」と言っていたのを聞いて、残念なことを言っているなあと感じたのでメモっておきます。

どんな写真にも同じ価値があって、目的が違うだけ。そして、無知ゆえに「他人が間違っている」と言う人は愚かです。

何も起きていない場所で、自分なら何が撮れるかを考えていないと、写真はただのメモか記録になる。

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多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。