石を投げる資格。

「旬」というのはいい言葉だな、と筍を見て思う。無論われわれ人間が食べる時期についてああだこうだと語っているのだからいい気なもので、牡蠣や鰹などにしてみたらたまったものではなかろう。

鰻などは源内先生が夏を旬と決めたのに、年中美味しいものだから、今では絶滅の危機に瀕しているらしい。そこで嘆くのもまたある種の傲慢である。動物は何かの理由で多くの種が絶滅し、消えていった。人類もいつか消える。

あるスタイルの「攻撃的ヴィーガン(論理矛盾だ)」が、動物に優しくすべき、などと言う。それには一理あるかも知れないが、一理しかない。人が生きていれば人数と同じだけの理と罪がワンセットで存在することを想うべきだ。

自分が信じる「ひとつの」正義という経典のもとに、考えが違う人を攻撃していいという理はどこにもない。

ひとつ言えるのは「何かをしないと決めた人」は、自分は罪を犯していない、と同義だと思い込みがちだから「何かをしている人」の習慣を見つけては糾弾する。自分だけが覚醒した人だと思いたいから。

では、誰も何もしなくなるのが理想なのだろうか。人間も動植物も傷つけないように何もしないことが理想であるなら、人類は洞窟の中で座禅でもして過ごすほかない。食料は何もないので簡単に絶滅できる。

息をしたら「吸い込まれる酸素や窒素が可哀想だ」とまで言われてしまうかもしれない。

過去に鯨を乱獲した経験を持つ欧米諸国が今になって「鯨を守れ」とツバを飛ばすような厚顔さが人間そのものだ。だから、その厚顔さが自分の罪でもあることを認め「私には石を投げる資格はない」と自覚するところからすべては始まる。

日本語が読めない外国人には、この写真にこんな文章がついているとは思わないだろうなあ。

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