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使う人使われる人: インド人の力学

前回の「インド人とマウンティング」ではインド社会の階級意識及び序列によるマウンティングについて書きました。

もうちょっと突っ込んで、ではプライベートにしろ仕事にしろ、インド人と付き合っていくにはどうしたらよいのか? ということを今回は書きます。

私が女性で、インドでは若く見える(25歳くらいに見えるらしいです(笑))ことを前提にした話になります。駐在員の管理職のオジサンだったりするとまた違う力学になるので、そのあたりはあしからず。

インドには2種類の人がいる

さて私が大昔にインドの師匠と仰いでいた方は、常々「インド人は命令する人と命令される人に分かれる」と言っていました。

これは身分に関係なく、その人がどのような育ちかたをしたかによるものです。高カーストだからお金持ちとは限らないということを前回書きましたが、身分上は高位の生まれでも「命令される側」として育った人もおり、その逆もまたあります。

使う人の例

以前、映画に出てくるお金持ちを地で行く裕福なインド人家庭に招かれたことがあります。お抱えシェフのチームがいて、複数台ある車にはそれぞれドライバーがいて、執事がいて、メイドがいて、「どこそこにある別荘に比べると本宅は狭くて」という家が9ベッドルームある……という家庭です。

その家の一番下の子どもは当時8歳でした。そして8歳にして、使用人への指示出しがそれはそれは見事なものでした。

テーブルの上を片付けて、あれとあれを並べて。そしてあれをどうしてこうして。

人を使うことに慣れない私は、自分で動いたほうが早いとか、こんなこと頼んだら悪いとか思ってしまうのですが、そういうためらいがまったくないのです。タイミングや口調、どうしてほしいのかの具体的な希望。私の指示出しはこの8歳児にも劣るな……と思ったものです。

自分の旅でもツアー中でも、インドにいるときは「使う立場」が多くあります。前職で中間管理職になったとき「私には他人のマネジメントは無理!」と思いましたが、それはインドでも同じ。

宿でも、食堂でも、店でも、どこに行っても指示出し。「テキトーに」ではなく「明確に」。命令口調だけど横柄にならないように。

自分がなにを望むのか。なにが好きで、なにが嫌いか。なにをしてほしくて、なにをしてほしくないか。それが分かっていないとインド人に流されます。流されて素晴らしい体験ができればいいけれど、人に流されてよかった例は残念ながらあまりない、インドに限らずね。

使われる人の例

「なにをしてほしいか言ってくれ」

インド人はこういう人が本当に多いのです。「言わなくても分かるでしょう」ということまで事細かに指示しないと動けません。

たとえば、以前、社員添乗員だったころのこと。マニアックなツアーばかりで行き先は観光地ではなく、日本語ガイドもいない田舎。出迎えるのはローカル英語ガイド。よくいえば純朴、悪くいえばポンコツ。

ホテルについたらチェックインをしなくちゃいけない、そのためにはお客様から移動中の車内であらかじめパスポートをお預かりしておく、着いたらお客様をロビーやお手洗いにご案内する一方でドライバーにバスから荷物をおろさせ、ホテルのポーターに運ばせる。チェックインの際は相部屋の方には鍵を2つ用意して、部屋番号をポーターに伝えて、その他、ああしてこうして……。

この決まり切った流れを逐一指示しないといけない。「じゃあチェックインよろしくね」と言っただけでは、パスポートを集めることすらできない。

「言われてから動く」ことに慣れすぎていて頭を使わないので実に疲れるのですが、こういう人には私がなぜ苛々しているかは一切通じません。内心うんざりしながら"I am a commander now(私はただいま司令官である)"と自分に言い聞かせ、命令口調で仕切ります。

使われる日本人

一方、日本語が話せる観光地のガイドは日本人慣れしていて、日本人が仕切り下手なのを熟知している人が多い印象があります(個人的見解です)。上記の決まった流れなどはソツなくこなす一方で、添乗員やお客様のほうがナメられて「指示されている」場面を目にすることが多かったりします。

すべてガイドのペースで、肝心の観光もそこそこにバックマージン目当てのくだらない土産物屋などに連れて行かれたりして「ああ、お気の毒」と横目に見るしかありません。

去年、帰国便で某大手旅行代理店のツアー御一行様のお席近くになり、お客様たちが「インド人はずる賢い」「民度が低い」などとインドの悪印象を肴におもしろおかしく盛り上がっているのが耳に入り、お客様はともかく、添乗員も同調していて。

そういったツアーで接するインド人は確かにすばしこい人が多いけど、それだけで切り捨てるのも違う気がします。旅行のためにわざわざ大金を払って時間を使って、それでネガティブな思い出ばかりを持ち帰るなんて、もったいなくないですか? タージマハルや仏跡を見学できたらそれでいいの? 対インド人ネガキャンは私もたまにやりたくなりますけど(笑)。

私は観光地の日本語ガイドと初めて仕事するときは、最初にもろもろガツンと釘をさします。先制猫パンチです。そして必要に応じて英語での会話に切り替える。英語のほうが(私の気分的にも)命令口調で指示しやすいし、「英語を流暢に話せる人」というだけで威圧感が出ます。

先の記事でも書いた通り、マウントにはマウントで返し、相手のペースに乗らない。それができれば違うものが見えてくる国なんだけどなあ、ほんと。

EqualではなくFair

とはいえ。私は所詮は一般小市民。自己主張が強い人たちを相手にずっと強権政治を続けられる器ではありません。必要だからやるけれども、威圧しながらインド人を「使う」ことに根本的な違和感があります。

デン! と座って命令することに慣れている冒頭の富裕層のようなインド人は、人を使うことに関しては有能ですし、部外者である私に対してはごくフレンドリーでこちらも気楽なお付き合いはできます。でも、真に友人として心の底から気持ちよく付き合えるかというと、私はどこかに「これは違う」という気持ちが残ってしまう。

以前イギリスに住んでいたとき、イギリス人はやたらと"Fair enough"という言葉を使うなと思いました。「充分に公平である」というのが直訳で、「まあそうだよな」「当然だね」「わかるよ」といった意味です。そして同じくらい、"That's not fair"(それは公平ではない)、つまり「ずるい」「それアリなの?」というニュアンスを含む表現も聞きました。インドを植民地支配していた宗主国イギリスのイギリス人が"Fair"という言葉をよく使うというのはなんとも皮肉な発見でした。

インドにいるとこのふたつの表現をよく思い出します。

人と人との間に、なぜ序列があるのか。なぜ指示を出す人、指示を出される人が生まれながらに決まっているのか。

インドは"That's not fair"だらけ。

年端もいかない子どもが厳しい環境で働いている。幼子が道端で物乞いしている。その同じ時代、同じ国で、大人を当たり前のように顎で使う子どももいる。学校に行き読み書き計算を習うことすらままならない人もいれば、最高レベルの教育を受け最新鋭のガジェットを使いこなし天才的なアイデアを思いつく人もいる。

安宿などで、たまにものすごく「この子めちゃくちゃ賢いなあ」と感心するような子どもが下働きしていたりします。大学にでも行かせたらどれだけ伸びるだろうと思うけれど、私ができるのは、英語を教えたり、親方の目をかすめて小銭をあげたりすることだけ。そんなとき彼らが私を見つめる目には期待と絶望が入り混じっていて、それを受ける側としての感情はちょっと言葉にできません。

"Equal(同じ)"という意味での平等はなくてもいいけど、"Fair(公平)"という意味での平等はあってほしい。なにかに脅かされることなく、誰でも同じようにチャンスを与えられ、夢を見ることが許され、生きていることの幸せを感じることができる、それでこそ文化国家だと思うから。

「アタリ」のインド人とは

ひとりの人間の中身なんて知れています。ツアーについては、お客様の満足度的にいうと、自分色に染め上げすぎても、たぶん、おもしろくない。お客様視点でもそうですし、なにより私自身が、自分のスタイルだけに固執してはおもしろくない。

だから手綱は握りつつ、できれば接するインド人からの自由な提案が出てくるような関係に持っていけたらいいなといつも思っています。

「使う人」として育ったインド人、または「日本人は簡単に仕切れる」とナメているインド人が初対面の通過儀礼のマウント合戦で(小娘に見えるらしい)私にやり込められると、だいたいはヘソを曲げて「じゃあ、なんでも言う通りにやりますから指示を出してくださいよ、マダム」という態度になります。

一方、「使われる人」として育ったインド人は、お客様ではなく直属の司令官である私しか見ないので、指示出しに疲れて苛々している私にビクビクしたり、ご機嫌をとろうとしてきます。

それはもうそういうものなので割り切って通しますけども。できればです、違う展開がほしいところです。

どちらのインド人に対しても私が試みることがあります。

観光地を観光する。レストランで食事をする。そんなとき「私のご機嫌はとらなくていいからお客様が喜ぶことを考えて」というお題を出すのです。

ガイドブックに書いてあるような決まり切った説明とか、どのガイドもやる何万回もやり倒したような紋切り型の案内とか、日本でも食べられるタンドーリチキンとバターチキンだとか、まあクオリティという意味では安定しているし合格なのかもしれないけれど、なにか違う球を、あなた飛ばせない? と問うのです。

こういうとき、「使う人」側のインド人は自分目線をなかなか変えられず、しかも私に「使われる」ことに拗ねているのでほとんどなにも出てきません。ところが「使われる人」側のインド人が、ごくまれにきらめく球を投げてくることがあります。

その球をキャッチして返すと、おそるおそる次の変化球を投げてくる。これがいわば、うっすらとした"Fair"な関係のスタート。確固たる信頼関係に発展するまでは、ここからが長い長い道のりになります。

実際のところ、どんなに私がインドに慣れていようとも、ローカルな事情はローカルなインド人しか分からないものです。私が知らない気づかない、でもお客様にとっては興味深い、そんなことが引き出せると小躍りしたいくらい嬉しくなるし、インド人すごい、インドおもしろい! とまた惚れてしまう。

20余年のインド歴で、最初は仕事相手として始まり、のちに友人として親しくなったインド人はひじょうに限定的ですが、私がインドで困っていたら全力で助けてくれるし、国や人種や言葉の壁を超えて本当に気持ちよく付き合える生涯の友という感じがします。

あしらい方は千差万別

冒頭で「駐在員の管理職のオジサンだったら違う力学がある」と書きました。

たとえば私の師匠のように立場がある男性だったとしたら、あるいは私が大柄で見た目からしてもうちょっとマダム然としていたら、「使う側」のインド人も最初から一目置いてマウントしてこないかもしれないし、マウントに負けても「よし、やったる!」と奮起するかもしれません。しかし、どうやら小娘に見えるらしい小柄な女性の私には同じやりかたはできません。言いたかないけど、すぐオーバーヒートして人としての力量も小粒ですし……。

いずれにしても、一度心を閉ざされたらアウト。

ガツンとやりすぎて能面のようになってしまった相手は、もう「このめんどくさい小娘をやりすごす」ことしか考えなくなります。そいつもポンコツだけど私も同じくらいポンコツ。そういう失敗は山ほどしています、悔しいことに。

「使う、使われる」から先の、人として対等な立場での付き合いができたら嬉しい、でも最初からそれはできない。だからお互いにとっての"Fair"を目指すためにこそ、私はまた熾烈なマウント合戦で勝ちにいくことから始めるでしょう。

これはあくまで私のやりかた。立場によって、属性によって、それぞれ違うインド人との距離の縮めかたがあると思います。

師匠はインドでのインド人相手の仕事を「こんなおもしろいゲームを会社がカネを払ってまでやらせてくれるなんて自分はなんてラッキーなんだ! と思っていた」と言っていました。

ほんとそれな。

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