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映画『ニューヨーク公共図書館』 Peep-Showで垣間見るアメリカの平等と公平

多感な10代、ガリ勉の高校時代、講義がかったるかった大学時代、極限にビンボーだったロンドン時代。どれだけの時間を図書館で過ごしただろう。人見知りで友だちがいない若い日の私には、図書館は心安らぐ場所であり、インターネットがなかった時代には無限に広がる「世界」を見せてくれる知見に富んだ先生だった 。

映画『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』を観た。インド映画もびっくりな3時間半近い上映時間、背景もトピックも人物も一切の説明なしに延々と続く語りと映像。長回しのカメラがただそこにあるだけ。盛り上がる音楽があるわけでも、カメラワークの妙があるわけでも、細かいカットの切り替えがあるわけでもない。インド映画ファン的目線では、ものすごく退屈な映画だと思う。

けれど私は終始わくわくしていた。

たとえていうなら、Peep-Show(覗き見ショー)の観客になった気分というか。

巨大な有機体の中枢部である幹部会議、市内各地の分館の催し、書籍がシステマティックに仕分けされる舞台裏、黙々と資料をラベリングするスタッフ、来場者にテーマを掘り下げてレクチャーするキュレーター。

自分もその場にいて、会議やミーティングやイベントの一員になったような気分。覗き見のはずが、あ、そこ私はこう思いますよ? と思わず発言したくなる。ずっとブレストをしているような3時間半。

ランダムに繰り広げられるさまざまな場面から見えてくるのは、人が人として豊かに生きるとはどういうことだろうか? という質問。衣食住足りて、その次に求めるものってなんだろう?

図書館での就職イベント。自分の仕事がいかに素晴らしいか、仲間にならないかと熱心に話す人たち、面接の心得を表情豊かにアドバイスするスタッフ、あなたの頭の中に「やりたいこと」があるなら私たちに話して! 起業のサポートをするわ、と力強く励ます行政スタッフ。

こういう場面をインドや日本で見ることって今までなかった。あるのかもしれないけど、私にはなかった。

誰もが、自分には価値があると思えること。自分は忘れられていないと思えること。社会の構成要員だと実感できること。隙間に落っこちる人に居場所を見つけてもらうこと。

移民と奴隷貿易を経たアメリカ人はよくEquality(平等)という言葉を口にすると思う。人が人であるために与えられるべき基本的なものは、Equalでなければならない、と。受け取る側の視点。

対して、階級社会が現在まで綿々と続いているヨーロッパ人はFairness(公平)の観点を意識しているように思う。受け取る側であると同時に、序列によっては与える側でもあるから。

さて話がインドに飛びます。

人種も言語も信仰もまったく異なる人たちが13億人もいるインドでは、Equalという意味での平等はあまり意味がない。多様な価値観のなかでは、皆が同じものを与えられても、ある人には役立つがある人にはゴミだったりもする。

牛肉を食べない人がいるのに、一律、牛肉を与えても迷惑なだけ。伝統的な民族服を着たい人もいるのに、一律、同じ服を与えても困惑するだけ。

必要なのは、それぞれの価値観に応じた選択ができること、その機会が誰にでもEqualにあること、すなわちFairであること。この映画を観ていて、このところインドを思うときにずっと頭の中を占めていた"Equality""Fairness"に、スッと明快な導線が引かれたように思う。

作中、あちこちで「いかに弱い立場の人を取りこぼさないか」が議論されていた。施しを分け与えるのではなく、門を開き、受け入れ、その人が自分の価値を見つけ、高めていくための場所を作る。そのための「Public(公共)」施設であり、それこそが、自由と平等を掲げるアメリカ人の理念。

国家として思うところは多々あるけれど、アメリカ人の凄さは、自由と平等の精神が生きている人がたくさんいるということだ。市の予算のほか、民間からの資金提供も受ける。富の再分配。アメリカ資本主義的なノブレス・オブリージュ。

泣く映画じゃないと思うのですが、泣きました(笑)

この映画は、巨大な組織の中枢から隅っこまでがどのように機能し動いているか、観客の脳みそまでをも巻き込んだ一大記録だと思う。

黒人文化図書館の館長の「公民権運動の指導者が図書館を訪れた際、自分の活動が報道されていた当時の資料を読んでいた」というスピーチがとりわけ印象に残る。リアルタイムで功績が残されていく、自分が歴史のなかにいることを実感できる。それは現代社会では、膨大な個の発信の記録であるSNSなのかもしれないし、図書館は、リアルに存在して触ることができるSNSともいえるのかも、とふと思う。

また、人が集まり、助け合い、心を休める場所として、古き良き時代……か今も地方のどこかでは、教会がその役目を果たしている。図書館は記録の殿堂であると同時に、ニューヨークという雑多な人々が集まるメトロポリタンな街では、一種の「教会」なのかもしれない。

ロンドンの語学学校で、図書館でバイトする代わりに半年間授業料が免除だったことがある(成績トップの特権!)。どの語学書がどこにあり、こんな辞書があって、あんな文法書があって、学習用の読み物のラインアップはこうで、どんな本がよく貸し出され、教師たちが次にほしいのはこんな本。

司書的な仕事をしながらそんなことを分析して学校に報告したり、開館前に行って仕事前に目星をつけてあった専門書を貪り読んだり。お金も住む場所もないし毎日かけ持ちで働きすぎて睡眠時間もろくになかったけど、とてもとても幸せな時間だった。

Libraries are not about books. Libraries are about people.  図書館は本の保管場所ではなく、人そのものだ。

人はパンのみにて生くるにあらず。

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