「自虐風自慢と言わないで」2023年6月7日

正直に言って、幼少期から私は何をしてもそこそこできるやつだった。徒競走をしても全体を母数とすると上位10%に入るくらいは速かった。
勉強もできた。幼稚園を卒業する頃には簡単な読み書きができ、青い鳥文庫などを読むようになっていたし、九九もマスターしていて、筆算もできた。

小学校に入ってからも、何をやっても平均以上にできるいわゆる秀才であった自信がある。国語、算数、理科、社会のどれをとっても通信簿の成績が悪かった試しはない。

しかしながら、私には誰にも負けないという特定の分野に対する圧倒的な才能というものがなかった。

才能というと聞こえが悪い気がするので言い換えるが、なにか特定の分野に対して熱く燃え上がるような強い興味を持つことができなかった。つまるところそこそこまで努力をし、高い点数を取るものの人より優れているという強い実感を持てなかった。

ある男の子がいた。その子を仮にAくんとする。彼はほとんどのことが私よりできていなかった。勉強は私のほうができていたし、運動も私のほうが圧倒的にできた。しかし、芸術の才能と、それに対する努力量にだけは全く勝てなかった。

Aくんはいつも絵を描いていた。私はそんなに熱量を持って一つのことに取り組んでいる彼が羨ましかった。

これがすべての分野に対してあった。国語、数学、理科、社会、体育、美術、音楽、その他ありとあらゆる分野で自分より上がいる、しかも学校内に。

これが今の私を嫉妬の化け物にした原因であると思う。

ある時、この悩みを母親に打ち明けたことがある。その時の回答は、「あなたは何でもそこそこできると言っている。あなた以上に何もできない人からしたら高望みだと言われるだろう。」であった。

要するに自虐風自慢と捉えられる発言は慎めという叱責であったのだが、これに対して強い違和感を覚えたのである。

いま感じている不幸を無視しないでくれと。

とびぬけた才能の無さを悲観している人に対して、自虐風自慢だと言うのは本当にやめてほしい。

これと同じような論法に、貧しい国で生まれなかったことを幸せに思え。というものがあるが、これもその人の不幸感を無視した無責任な発言であると思う。

まとまりに欠ける文章になったが、兎にも角にももっと幸せを感じられる生き方をしたいと思う今日このごろです。 では。


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