スマホを捨ててみたい。

電車やバス、待ち合わせスポットで、目に付く人のほとんどがスマホに向き合っている光景は、今や珍しくもなんともないものになった。
私はまだ20年ほどしか生きていない訳だが、スマホの日常への溶け込み方を見ると、たった20年で世界は変わるものなのだな、と感じる。子供でもスマホを持つことが普通になってきたのは、私が中学生の頃だったと思う。つまり、高校生の頃には、自分の属するコミュニティにいる大多数の人がスマホを持っていたのだ。正直なところそれ以前のことはよくわからないし、年齢のせいもあるのかもしれないのだけれど、SNSが常に生活に張り付くようになったことには、確実にこのスマホの普及があるんじゃないだろうか。

人と常に繋がっている、というのは、なかなかすごいことだと思うし、疲れるものだと思う。もちろんスマホを持っていたって、主に使うのは電話とメールで、LINEもTwitterもやらない。という人だっていると思うので、一概には言えないのだが、それは、特に若者にとっては難しいことで、今は誰かと常に繋がっていることは、とても普通のことなのだ。けれど、この、誰かと常に繋がっているというのは、ふとした瞬間にぞっとするものがある。私はこの普通のことが苦手だ。

誰かと繋がっていたいというのは、誰かと、互いの存在を頭の片隅に置きあっていたいということだと思う。恋人でも家族でも友人でも、必ずその人のことを忘れている瞬間というのはある。ひょっとしたら、この世の中で、誰も自分のことが頭にない、極端に言えば、存在を忘れられている時間の方が長いのかもしれない。いざ文字にして、考えてみると、それはとても怖い。誰にも気にかけられたくない!という人ももちろん多いだろうけれど、それは気楽であると同時にとても広い場所に置き去りにされたような気持ちにもなる気がするのだ。

ならばSNSで誰かと繋がっていることは、誰かに見ていてもらえることは、幸せなのではないか、ぞっとするなんてとんでもない!と思われるかもしれない。けれどこれは別の話なのだ。SNSで誰かに向けて何かを発信したり、LINEの 会話の途中で止まっていることは、確かに、自分のことを誰かに見ていてもらうことだと思う。けれど、これは、誰かに自分のことを頭の片隅に置いていてもらうこととは別なのではないだろうか。Twitterで今何をしているか発信しても、それが誰かの目を素通りしてばかりだったら、誰かに自分を見せているのに、認識されていない。これはとても寂しい。

知らない場所で、知らない人ばかりの雑踏の中で、一人でたっている私に誰も注目しないことはとても普通で当たり前のことだ。
けれど、知っている場所で、知っている人達がたくさん行き交う場所に立っていて、私を誰も気にとめてくれないことは、とても焦るし寂しいものだ。

スマホを持ち歩いて、どこにいても誰かと繋がることが出来る生活は、とても便利でとても息苦しいものだ。自分のことを誰も気にとめないという、当たり前なはずの瞬間を、とても寂しいものにしてしまうものだ。

何でもできる小さな機械を持ち歩かないことは、今ではとても難しい。常に連絡を取れることが普通である以上、そこある誰かと繋がる機能を使わないことも難しい。けれど、たまには、忘れたということにして机の上に置き去りにしてしまってもいいのかもしれない。そんな日は、自分のことを世の中全員が忘れている瞬間が、寂しい時間から自由な時間に戻るかもしれない。

#日常 #エッセイもどき #エッセイ

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