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『新・家の履歴書』インタビュー

こちらの記事は、「週刊文春」2020年7月2日号に掲載された安野モヨコの『新・家の履歴書』のインタビューです。
安野が幼少期を過ごした郊外の団地、結婚後に夫・庵野監督と暮らした鎌倉の古民家の話など、これまで住んできた「家」とその想いについて語っています。(スタッフ)


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高層団地の部屋の窓からいつも外を眺めていたので、物事を俯瞰して見る癖がついたのかも。

ペンネームの由来は敬愛する絵本作家・安野光雅と、夢野久作の小説『ドグラ・マグラ』のヒロイン・呉モヨ子から。テレビドラマ化された『ハッピー・マニア』『働きマン』などで知られる漫画家の安野モヨコさんは、昨年デビュー30周年を迎えた。
1971年3月26日生まれ。出身は、東京都杉並区和泉だ。

私は、両親が同棲時代から住んでいた杉並のアパートで生まれたのですが、じきに、年子の妹が生まれるというので、世田谷にある母の実家に移り、一家で居候していた時期があったそうです。
その後、郊外の公団に引っ越してからも、子供時代は学校が夏休みや冬休みに入ると、その世田谷の伯父の家で長期間過ごすのが毎年の恒例。おじいちゃん子で、一緒に「時代劇アワー」を観るのが大好きでした。

母の兄である伯父は、『ヒゲとボイン』や黄桜の「河童」のイラストを描いた、漫画家の小島功です。父は、伯父のグッズを扱うデザイン・企画会社を経営し、母は専業主婦でした。

引っ越した先は、多摩ニュータウンの中で最初期に開発された、3000戸を超える永山団地。富士山がよく見える10階の一室で、22歳まで暮らした。

とにかく、どこまでもどこまでも団地。窓の数を数えて遊んでいたのをよく覚えています。
できてすぐのタイミングで入居したので、周りは同じ世代の子供がいる家族ばかりでした。ご近所づきあいも濃くて、フロアの一角にゴザを敷き、夏になるといろんな階から人が集まって一緒にそうめんを食べたり、カレーを食べたり。

家は50平米あるかないかぐらいの広さでした。玄関を入ると廊下、ダイニングキッチン、1番奥の南向きの6畳間が両親の部屋。
ただ、母が片付けられないというか、物を捨てられない人で。家の中にどんどん物が溢れ始めて、最終的には両親の部屋に年中置いてあったコタツが、家族の食卓になりました。私と妹の部屋は4畳半で学習机2つとピアノも置いていたので、布団を2枚敷くとギッチギチ。
どの部屋も、壁は漆喰でした。今でも漆喰が好きなのは、この家に長く住んで馴染んだからだと思います。

漫画で一族を食べさせていた伯父・小島功。
その存在が将来の選択肢を示してくれた

ほぼ居間と化していた両親の部屋には、父の趣味で、巨大なステレオが置いてありました。その隣に、父が若い頃に読んだものが並んでいたんだと思うんですが、大きな本棚がありました。山本周五郎全集や司馬遼太郎さんの本などを背伸びして読んでいくうちに、読書が習慣になりました。
家の本棚で出会った中で特に印象に残っているのは、『月と六ペンス』のサマセット・モームです。モームの人間を見る目線の厳しさと優しさ、複雑さには、漫画を描くうえですごく影響を受けていると思います。

1977年、多摩市立南永山小学校に入学。第2次ベビーブームの波を受けて生徒があふれ、新設された西永山小学校へ3年時に転入する。漫画家になろうと決意したのは、その年だ。

漫画を読む環境には恵まれていました。家では親が買ってくれた少女漫画を妹と一緒に読んでいましたし、近所に住む同い歳の女の子が、少年漫画や青年漫画を山ほど持っていたんです。
もちろん、伯父の存在も大きかった。世田谷の家には長新太先生ややなせたかし先生の絵本などもあれば、献本で送られてきた「週刊漫画ゴラク」や「漫画サンデー」のバックナンバーがどっさり置いてある。学校の長期休暇で伯父の家へ遊びに行くと、手当たり次第に熟読していました。何より大きかったのは、伯父の存在が漫画家という職業を、将来の自分の進路の選択肢として与えてくれたことです。
まだまだ「漫画なんかで食べていけると思うなよ」と言われるような時代に、漫画で一族を食べさせている人が目の前にいる。小学3年生で「将来の夢」という作文の課題が出た時、漫画家と書いてからは、気持ちはまっすぐそこへ向かっていました。

小学校の漫画クラブでは部長を務め、1983年に西永山中学校へ進学後は、美術部で漫画を描いた。1986年、関東高校(現・聖徳学園高校)に入学。1年生の時に「別冊マーガレット」へ投稿して入選し、翌年には「別冊少女フレンド」の研究生になる。

漫画を投稿するとほぼ必ず入選し、賞金がもらえるようになりました。
高校に入ってからはクラブに行ったり、友達のところを泊まり歩いて遊び呆けていましたが、たまに家へ帰ると、徹夜で16ページ描きあげたら原稿をポストに投函。投稿は割りのいいバイトのようなものでした。

漫画を描き終わるとまた友達の家へ。父は私が中学生になってすぐの頃に働かなくなりました。昼間からお酒を飲んでテレビを見ている。母は私に対して何事も「ダメよ」「やめなさい」が口癖。妹と母は似た者同士で、「双子親子」みたいな関係だったので家に居場所がなかったんです。

高校1年の時にファンレターのお返事をいただいたことがきっかけで、岡崎京子さんの下北沢の仕事場にお邪魔して、仲良くさせていただくようになっていました。自分と価値観の合う人は、家の外にはたくさんいる。
でも、家の中にはいなかったんです。

1989年、「別冊フレンドDXジュリエット」7月号に『まったくイカしたやつらだぜ!』が掲載されデビュー。同年4月、新宿区舟町にあった「セツ・モードセミナー」に入るも一年で退校する

デビューの賞金をそのまま、入学金に当てました。結局、学費が払えず1年でやめてしまいましたが。
デビューといってもすぐに仕事がもらえる訳ではなく、コンペに出しては落ちる日々。原稿は数カ月に1回しか載らなかったので、友達が働いている歌舞伎町のキャバクラでバイトして、岡崎京子さんや桜沢エリカさんのアシスタントをしながらお金を稼ぎました。その大部分は、生活費として母に渡しています。22歳の時にやっと出せた最初のコミックスの印税も、ほぼ家に入れました。

団地見取り図

初連載作『TRUMPS!』の最終第2巻(1994年12月刊)の刊行直後、23歳で家を出る。初めて一人暮らしをした家は、JR山手線恵比寿駅から徒歩2分のマンションだ。

出版界が1番景気の良かった時期なので、新人でもコミックスの初版は3万部から。その印税が入った瞬間、引っ越しました。家族と離れなければ自分も壊れてしまうと思ったんです。ただ、その頃に妹が精神疾患で入院したので毎月の入院費が発生するようになりました。両親のためではなく、妹のために、その後も仕送りはずっと続けました。

部屋は、友達経由で知り合った不動産屋さんから紹介してもらった4階建ての4階で、狭いキッチンと6畳間の1K。昔の物件なので押し入れが大きく、私の机と、アシスタントさんの机を兼ねたちゃぶ台、漫画の道具以外はそこへ放り込んでおきました。

「別冊フレンド」との専属契約をやめたことも大きかったんですが、引っ越した途端、一気に仕事が増えました。締め切り前はこの部屋にアシスタントを3人入れるようになり、時には原稿料よりアシ代の方が高くつく(笑)。アシ代を稼ぐために、連載をどんどん掛け持ちするようになりました。

傷だらけのヒロイン・重田加代子が疾走する
『ハッピー・マニア』が大ヒットし超多忙に

フリーになって初の連載が、大ヒット作『ハッピー・マニア』(「FEEL YOUNG」1995年8月号〜2001年8月号)だ。付き合う前にセックスし、違うと思えばすぐ次の男に乗り換えて、傷だらけになりながらも本当の恋を掴もうとする重田加代子は、恋愛漫画のヒロイン像を塗り替えた。

「FEEL YOUNG」は岡崎京子さんと桜沢エリカさんという、二大オシャレ漫画家が描いている雑誌。センスやかっこよさでは勝負しようがないし、セックスに関しては内田春菊さんが死ぬほど描いている。私に残された武器は、笑いしかないなと思ったんです。正直、やぶれかぶれでした(笑)。

当時よく誤解されたんですが、シゲカヨに自分を重ねて描いてはいません。自分とは離れているからこそ、あんなに痛々しく暴走させることができたんです。普段から、物事を俯瞰で見る癖があるんですよね。漫画を描く時も、主人公が陥る状況に対して引いた視点から「こういう見方もあるんじゃない?」「こっちの道は?」と考えて、1番面白い選択肢を選んでいる。俯瞰で見る癖はもしかしたら、高層団地の部屋の窓からいつも外を眺めていたことで培われたのかもしれません。

2年後、恵比寿と広尾のちょうど真ん中に位置する3DKのマンションに引っ越した。「やはり公団っぽいマンション。実家に雰囲気が近い部屋を選んでしまいがちでした」。途中で原宿に仕事部屋を借り、自宅と分ける生活が始まる。

ほどなくして、28歳の時、代官山に自宅マンションを買いました。しばらくは代官山の自宅から原宿の仕事場に通っていたんですが、恵比寿ガーデンプレイスの近くに新しい仕事場を借りて。そこは内装もこだわりまくりで、私の趣味が1番出た部屋だったかもしれません。目に入るものは、自分が美しいと思うものであって欲しかったんですよね。仕事をする時はきちんと化粧をして、ヒールのある靴も履いていました。でも、家ではだらーっと(笑)。仕事とプライベートの切り替えをきっちりしたかった。

約1年の交際を経て、アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』で知られる庵野秀明監督と入籍したのは、自身の31歳の誕生日である2002年3月26日。2005年には、『シュガシュガルーン』で第29回講談社漫画賞児童部門を受賞。
結婚後間もなく、夫婦で鎌倉の古民家を購入した。リフォームを完成させ入居したのは、2006年春だ。

カントクは最初、別居婚にしようと言っていたんです。私も急に環境が変わるのは大変だからそれでいいなと思っていたんですけど、カントクはうちに来たっきり自分の家に帰らない。それ以来、ずっといます(笑)。ただ、代官山のマンションは、自分は一生結婚しないだろうから、女性1人で暮らすのにちょうどいい物件だと思って買ったんです。それなのに、ものすごい量の漫画とDVDを携えたおじさんが移り住んできてしまった。うちへ帰ってくるたびに物を増やすんですよ。カントクにも一部屋与えたんですが、すぐぎゅうぎゅう詰めになってしまって。ここは私の事務所にし、2人で家を建てようという話になりました。

探し始めて3カ月目にたまたま巡り合ったのが、鎌倉の古民家付きの土地でした。和洋折衷で窓枠が全て木でできていて、どこか懐かしさを感じるその家に、二人とも一目惚れしました。昭和30年代に建てられた家なので、不動産屋さんからは壊して新築したほうが安くつくと言われたんですが、直して住むことにしました。元は趣味人のおじさんが建てたそうで、蘭を育てるための温室があったり、金魚用の立派な水槽が焼き物タイルで作りつけてあったり、お茶室があったり。1番お気に入りの部屋は2階にある日の当たる座敷なんですが、子供の頃に過ごした世田谷の祖父の部屋に似ているんですよ。

鎌倉の自宅と代官山の仕事場を往復する日々は、2008年3月まで続いた。直前まで7本の連載を抱えていたが、体調不良のため『オチビサン』以外の連載を休止する。

休養中は、鎌倉の自然に助けられましたね。庭や家の周りを歩きながら、都会ではなかなか気づけない四季の移り変わりを味わう中で、多忙な頃に溜め込んだ心身の疲れがほどけていき、少しずつ少しずつ回復していきました。

庭は160坪ぐらいあるんですが、もともと80坪でした。ある朝、カントクがゴミ捨てから帰ってきて、「なんか隣の家を買うことになったよ」と。隣の家のご主人とばったり会って、できるだけ早く処分したい、安くするからと声をかけられたんです。建物自体はボロボロだったので更地にし、庭を拡張しました。

今の季節は庭にある梅の木の実をもいで、梅酒や梅シロップを毎年作っていましたね。新緑のモミジって本当に綺麗で、周り中が真っ青になるんです。竹やぶの下には、アヤメの仲間のシャガという涼しげな白い花が咲いていました。その隙間からトカゲやカナヘビ、ヤモリがにょろにょろと。結婚してすぐの頃に飼い始めた猫のジャックが、いつも彼らを狙っていました(笑)。

2013年11月、5年8カ月ぶりとなる長編新連載『鼻下長紳士回顧録』を執筆開始。4年半かけて描き継がれた同作は、第23回文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞を受賞した。現在は『ハッピー・マニア』のシゲカヨが45歳となって再登場する、『後ハッピーマニア』を連載中だ。

『ハッピー・マニア』は世の中の「結婚=幸せ」という考え方に対する違和感を描きました。『後ハッピーマニア』では「不倫=離婚」「離婚=不幸」という考え方を疑ってみたいな、と。パートナーが不倫したからといって世間の尺度に合わせて離婚しなくたっていいし、たとえ離婚することになったとしても、夫婦として過ごした時間の全てが不幸なものとなるわけじゃない。そもそも自分が幸せかどうかは自分で決めればいいんじゃないのかな、と。

鎌倉の家は、年齢的に2人とも都内への通勤が厳しくなり、人に貸しました。今はカントクと2人で、都内のマンションに暮らしています。
お互い似たような業種のせいか家にいても結局仕事の話をしてしまいます。何しろカントクもずっと、自分が20年以上前に手がけたアニメの続編(『シン・エヴァンゲリオン劇場版』)を作っていますから。毎朝ご飯を食べながら、続編の難しさについて話し合ったり。消化に良くないですね(笑)。

監督&ロンパースイラスト(市川興一氏・画)

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取材・文 吉田大助
イラストレーション 市川興一

初出・「週刊文春」2020年7月2日号

安野モヨコのエッセイやインタビューをさらに読みたい方は「ロンパースルーム DX」もご覧ください。(スタッフ)


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