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悩みを抱えている透明人間たち

NPOで活動する中で、SNSで情報発信をしていて一つ気付いたことがある。

それは、例えば悩み(心に影を差すような)を抱えている人間は、SNS上で非常に見つかりにくい存在であるということだ。


Twitter、Facebook、LINE、インスタグラム、mixi、blog全部やっているが、全体を見てもポジティブな内容を投稿している方が圧倒的に多い。
こちらから悩みを表す特定の言葉でも検索しない限り、利用者の大半は表側の姿しか見せていない。

だから、これらを漫然と眺めていて、自分の悩みが解決した(orそのヒントを見つけた、気が楽になった)という経験は実のところあまりない。
情報の取得に際し、取捨選択するという行為が当たり前となっている。

mixiは結構例外で、半匿名とコミュニティの相性が良かったためか、ネガティブなものも割と見かけた。(おかげで自分はここで居場所を見つけることができた)

Twitterも半匿名で使われていることが多いので、割とここに日ごろの愚痴をこぼす人もいるだろう。
ただしあくまでつぶやきがメインであって、Twitterだけで繋がり(継続的な会話ができる関係や、グループへの所属感が持てるなど)に続くかと言われると、使い勝手は良くないかもしれない。

Facebookやインスタグラムは大体実名なので、ここで悩みをでかでかと主張する人は稀だった。(なぜなのか?恥ずかしいから??)

LINEは元々の繋がりを補完する要素が強いから、LINE上で友人や知人を介さない全く知らない者同士が、何かによって繋がるという使い方は難しいかもしれない。(自分が知らないだけかもしれないのでご容赦を)


悩みがある人も、無い人も人間としては同じ存在であると思う。

どんな人だって悩むときは訪れるはずだ。
しかし、ポジティブなことは簡単に言えても、ネガティブなことは言い出しにくい。

だから、自分が悩みを持っているときに、SNSを見ることで感じる孤独感が生まれるのは、ネガティブ情報に触れることが少ないのが原因なのだろう。


このツイートがバズッたのは、おそらく同種の悩みを抱えている人は沢山いたものの、それをどう表現したら伝わるかわからなかった人が多かったからだと思う。(しかし共感できることが多い分、胸が痛い)

SNS疲れなる言葉も、ポジティブがあふれ過ぎてて、自分とのギャップにショックを受けたことが原因なのかもしれない。


悩みを癒すのに、自分と似た経験や感情を共有し合うことは割と効果的だと実感している。

それが継続できるのなら尚更である。

人生の豊かな充実を考えるのなら、ネガティブなものもポジティブなものも、等しく機会に触れられることが望ましい環境なのではないだろうか?


大半の人は孤独を嫌うと思う。

一人で生きていくのは辛いだろう。生きているのに、存在を認めてもらってないも同然なのだから。

だから社会に所属しているし、情報を探すor発信しているし、承認を受けたいと感じている。

SNSが無かった時代の人類も、同じような寂しさを感じていたのだろうか?
もしそうだったら、どうやってその寂しさを克服していたのであろうか?

現代人は、テクノロジーの進化によってある意味余計な人間関係を背負ってしまったのかもしれない。

おそらく、社会を成り立たせる上で今後もネットワークに依存することは避けらないだろう。

だからこそ皆、自分と他者との関係をどう装うか喘いでいる。



「私はここにいる」


これを他者に認めてもらうためには、結局のところ常に行動で表す他にないのだと思う。(例えば、気になった一人ひとりに、自分から積極的に声を掛けるとか等)

私は、ネットもリアルも関係無くどんな方法であれ、悩みを抱えている当事者に情報を届けたいし、関係をやり取りできるようになりたいと思っている。

だからこうしていつも文章を書いている。

返事の無い手紙のようなものだと思う。

的確な相手を探す方法がいまいちなので、この辺は常に改善していかなければならないだろう。



光が強ければ、またその影も濃いと教えられた。

両方の感情を認めて、一人の人間としてありたい。

何らかのアクションをいただけると、一人で記事を書いてるわけではないのだと感じられ、嬉しくて小躍りしちゃいます。