「17歳のきみへ」 30歳を過ぎてようやく人生を動かし始めた人間の話
初めに(このリンク先へ飛んできた方へ)
最近知り合う方が増えてきたので、改めて自己紹介させていただきます。
私の名前は平賀信吾と言います。ニックネームではNOBと名乗っています。
現在、親の離婚によって様々な悩みを抱えた人たちが自由に語れる居場所を作るために、日々活動をしております。
自己紹介でこう名乗ると、大抵次は「なぜそれをしているのですか?」と聞かれます。毎回手短に団体の誕生ストーリーを語るのですが、そこに私の人生のことはあまり含めません。
真面目で片っ苦しく長い話なので、空気が重くなるし、面倒くさがって正面から話すのを避けていました。
ただ団体の活動をしていく中で、人から共感を得るにはまず自分と言うものを晒さないといけないということを学びました。
ですので、今回は「恥ずかしく情けない、いつも隠していたい自分」と言うものを出した上で、改めて自己紹介をしたいと思います。
17歳のきみへ
思えば、私の人生の転機は17歳だったと思います。
それまでは特に問題無い家庭に育った、ただの高校生として、将来もそのままなんとなく望み通り生きて行くのだろうと考えておりました。
それから17年経ち、今34歳の私は、こうして文章を書いております。
17歳から34歳まで期間、色々なことがありました。ごく普通の暮らしをしていくだろう考えていた頃からは想像がつきません。あの日以降、人生のレールとは決して定まっていないこと受け入れながら生きてきました。
30歳を過ぎてようやく自分のできることをやっていこうという覚悟ができました。そのスタートは間違いなく17歳のあの日からだったと思います。
これは34歳の私から17歳の私に向けた手紙です。
今日までの17年間は、苦しくも後悔だけではないということをあなたに伝えたくて、これまでの半生を綴りたいと思います。
17歳の正月
高校2年生だった正月、家族で父方の実家に新年の挨拶へ行きました。
その帰りの電車内で、両親がぼそぼそと話をしていたのを覚えています。
内容は、お互いの夫婦関係について今一度きちんと考えてみるべきでは?ということでした。私は寝たふりをしていたので、おそらく両親は会話を聞かれていたとは考えなかったでしょう。
普段から日常においてほとんど会話の無い家族でした(特に全員がそろう夕食時など)が、それが普通では無く異常だったということを自覚した日でありました。
27歳までの10年間
それから27歳までの10年間は、色々と泥の中をもがく日々でした。
両親は目に見えた形で家庭内別居という状態を始めており、他の兄弟と私も含め、同じ家に住んでいながら家族全員心はバラバラでありました。
そんな状態だったので、早く家から出たくて「人生の目標=自立」(家を出て自分の収入だけで暮らして生きて行くこと)以外考えられないような人になりました。その日を実現できる時まで、耐えているのが辛いという本当の気持ちを誰にも言えない孤独な時期でしたね。
この10年間の中で、自立できる大きなタイミングは3つありましたが、残念ながらどのタイミングでも自立することはできませんでした。
個人としての力も不足していましたし、周りに助けを求める方法も何もわかっておりませんでしたので。
①21歳の大学3年スタート時
大学に入学してまず決めたことは、家を出るということでした。**
このまま実家に居ても確実に自分は壊れてしまう。だからどこかのタイミングで家を出ようと。
1~2年の時は貯金が無かったので、とにかくそれを増やすことを目的としていました。
月平均で5万円位ずつ貯金できていたので、大学3年の始まる頃には約80万程貯まっていました。(途中で自動車の免許取得に30万程使っているので、2年間で100万以上は貯めていたと思います)
しかし、大学3年を迎える前に、両親から今回の分はそれだけ貯金があるのなら授業料を自分で全額払ってくれとの話が出ました。
ここで当時考えた選択肢は2つあります。
1、両親の提案を突っぱねて、大学を辞めてでもいいから家を出て行くこと。
2、それとも、おとなしく授業料を払うことで大学を続けることを選ぶこと。
結局後者を選び、家を出ることを諦めて、そのまま実家から大学に通い続けました。
「自分で大学に行くことを選択したのだから、その責任を最後まで負うことも当然だろう」
当時は自己責任という言葉が普及しだした時期でしたし、そうすることが当然なのだろうと思いました。が、あえて言うのなら、こうでも考え納得しないと、怒りや悲しみで気がおかしくなりそうだったのかもしれません。
今でもこの時の選択は何が正解だったのかわかりません。“大人”の選択としては正しかったのかもしれませんが、残念ながらその気概を持ち続けられるほど私自身が成熟していませんでした・・・。
そういえば、当時付き合っていた方に色々悩みを打ち明けていた時、「あなたはまだ卵の状態なのかもしれない」と言われたことがあります。この辺りからも、一人の大人になりきれない苦痛を常に感じていたのだと思います。
②23歳の卒業単位発表時
大学3年から、その後の3年間は生きていても幸せを感じられない日々でした。
自分の挑戦が他者の影響によって失敗させられるという現実を突き付けられたので、大きな挫折の痛みを抱えていました。
大学に通っていても新しく未来への希望を見出すことは出来ず、しかし生きて行くためには、傷が癒えないままでも再び同じ生活に戻らざるを得なかったので、悩みを常に抱えていたらうつ状態になってしまったのです。
結局、大学3年時は半年位しかまともに通うことができず、そのまま進級はできたものの、卒業までの単位は足りず、留年を致しました。
留年が決まった時は、何のために授業料を払って通い続けることを選択したのかと空しさを感じました。その後、親と話し合い、お金は出すから卒業はしてほしいとのメッセージを受けたので、1年留年してどうにか単位ギリギリで卒業しました。
行きたかったはずの大学が、いつの間にか義務感に変わっていたので憔悴感を感じていました。
あの当時は、失敗ばかりの自分には価値が無いのだと思い、まともな就職活動もせずとにかく毎日の日々をどうにか過ごすので精一杯でした。
結局卒業後は、就職せずフリーターとしてアルバイトをしながら生きることからスタートしました。
③25歳、正社員として生活を始めた時
どこにも就職できず卒業してしまいましたが、少し楽観的ではありました。
理由としては、とりあえずもう大学に通わなくてもいいこと。まともな仕事に就けさえすれば、すぐにでも自立できるだろうと考えていたことが挙げられます。
外的要因として、リーマンショック後の反動で、多少企業の採用枠が良くなっていたので、第2新卒でもどこか雇ってもらえるだろうと考えられたことがあります。実際、その後卒業した年が明ける前の12月に、とある会社で正社員として就職することができました。
仕事が始まってからの話ですが、ここから新しい人生を生き直そうと考え、新人の遅れを1日でも取り返そうと必死になりました。と言うより、「ここで失敗したら、今後まともに人として浮上できる機会は無い」とかなり追いつめられていたのだと思います。
それぐらい気持ちに余裕がありませんでした。それしか生き方を知りませんでしたので。
しかし、その強い思い込みが周囲に理解されているというわけではなく、ストレスばかりが溜まる日々でした。どんなことを言われようと、とにかく居場所を掴もうと耐えていたことが良くなかったのかもしれません。
結果的に、就職して2カ月後、味方だと感じていた人に仕事上のささいなことを注意されたことで気持ちがポキっと折れてしまいました。
帰宅中の電車の中で、(衝動的に電車に飛び込んでもしょうがない気分でしたが)、もう限界だなと静かに悟っていました。
次の日から何日か仕事を休み、モチベーションも回復すること無く、やはり続けるのは無理だなと感じたので、辞めることを選択しました。
その後は、未来にまともな希望を持つことを考えることもなく、再びアルバイトとニートを繰り返しながら、深海で嵐が過ぎるのをただひたすら待ち続けるような毎日を送っていました。
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17歳から27歳までの10年間、自己嫌悪、自己不信、うつ病を抱えながら「何が原因で自分はこんなにも生き辛い想いをしなければならないのか?」と考えない日々はありませんでした。
結局のところ、両親の不和から始まる家庭での居場所の無さが、そのまま不安定な人生の余裕の無さに繋がっていたように思えます。
この期間中、母親には何度か別れてほしいとお願いしたこともありますが、首を縦に振ってくれることはありませんでした。本人としても色々迷っていたのだと思います。
私は自分の力で原因の大元を動かすことは出来ず、かといって自分自身の環境を変えることも叶わず、その全てを己の中に閉じ込めながら、人生を歩んで行きました。
28歳の転機
アルバイトとニートで日々を過ごしていた私は、そのまま28歳になっていました。
この年は変化の年でしたが、本当に色々とタイミングが重なる年でした。
・前年度に両親が長年の結婚生活にピリオドを打ち、家族の形に一定のけりが着いたこと。
・東日本大震災を経験したことから、自分を大切にしようという当たり前の価値観を受け入れられるようになったこと。
・震災の1か月後、過去に家族問題で悩みながら大人になった人ためのSNSのコミュニティをたまたま発見し、そこに参加し始めたこと。
これらの出来事を通して、再び将来に対する前向きな気持ちが得られたので、その後はアルバイトをしながら実家を出て一人暮らしをすることへ繋げられました。
そういえば、今となっては笑い話ですが、10年間溜め込んだ胃痛が原因で初めて救急車に運ばれ、入院までしたこともありました。(苦笑)
結果的にその後再発することなく過ごせていますが、身体の隅々まで変化した時期だったと改めて思います。
32歳の決意
そのまま人生が上向きになったかと言えば、そうでもありませんでした。
先ほども書いたように、これまで「人生の目標=自立」だったので、それが達成してしまった以降、何を目標に生きればいいかわからなくなってしまったのです。
仕事環境も、給料が上がる見込みは無く、かといって趣味に没頭できる余裕も無い生活でした。
転職も常に考えていましたが、生活の維持に労力を取られてしまい、前に進むだけの力も湧かなく実行に移せませんでした。
このような暮らしを続けて4年間はなんとか耐えられましたが、その後職場と家の往復しかない生活に考え込むことが多くなり、うつ病の症状が段々と酷くなったので、会社を休みがちになりました。
ある時、会社からこれ以上休むと首になるという話を受けました。
ショックではありましたが、同時に「自分がこれまで人生を生きて、得たものは何だったのか?」を真剣に考える機会でもありました。
そのまま首になれば、帰る実家は既に無く、仕事を転々としてスキルもまともに育ってない自分は、いつホームレスになってもおかしくない状況でしたので。
そして出した答えは、「これまで自分が悩みながらも生き抜いた経験を、今苦しんでいる若者に伝え、彼らの苦しみを少しでも楽にしてあげたい」ということでした。ここまでで自分のできることと言えば、まさに生きてきた経験を語る以外他にありませんでしたから。
ですので、この経験をどうにか仕事にして、収入を得て暮らせるようになろうと決意しました。
発想のきっかけとして、参加したSNSのコミュニティの存在が重要なものとなっております。
ここで今まで友人にも言えなかった数々の本音を口にすることや、それに対する同意の数々が自分と言う人間の存在を肯定させてくれました。
特定の人間関係に頭から依存していたわけではありませんが、それでも2~3カ月に1回の集まりが救いになっていたのは言うまでもありません。
ですがあくまで私的な集まりに過ぎなかったので、このコミュニティを通して自分が学んだことを、もっと多くの方にも知ってほしいと感じました。
それからは、自分の願いを叶える活動を効率よく行うにはどうしたらいいのかを考え、NPO法人を作るための勉強を始めました。
この時期は、できることや、やりたいこと、生きることに徹底的に向き合う大きなタイミングだったと思います。
新しいことに挑戦するのは簡単なことではありませんでしたが、勉強をする中で嬉しかったことに、自分がどうしても実現したいと考えたことを肯定してもらえる意見を多くもらえたことがあります。
これまでの人生で、自分の意見というものを肯定してもらえる機会はほとんどありませんでしたから、それがポジティブな原動力となり、前に進むことを続けられたのだと思います。
34歳の現在
現在は、そのような「親の離婚を経験した当事者」たちが自由に話し合える居場所作りのため、去年度に任意団体を設立。今後は法人化をして更なる活動の拡大を目指して日々勉強中です。
このように17歳からの17年間は、人生の選択肢がある度、その結果を自分のものとして受け入れ生きて参りました。
不条理だと思ったことは何度もあります。
悪い原因を全て両親のせいにできればどんなに楽だったかもしれませんが、そうすることはできませんでした。
その理由をはっきりと言い切ることはできませんが、人生とは自分の意思次第でどんなものにも変化する可能性があるということを、おぼろげながら理解していたからかもしれません。
今は、将来こうありたいと考える自分というものがはっきり頭の中にあり、それに少しでも近づけるよう努力しております。
最後に
“普通の家庭”という言葉がありますが、私にとっての普通とは、自分が欲しいと思って手に入れられなかった理想のようなものだと思います。
当然ながら、自分からは普通に見える他の人の生活の中にも、実は色々抱えているものがあるということを理解できています。
だからこそ、“普通”を誰にでもある当たり前として押し付けるのではなく、その理想に向かって努力し続けることの大切さを考えたいと思っています。
追伸
最後に、一つ質問したいことがあります。
今から17年後、51歳の私へ
あなたの34歳からこれまでの17年間は、後悔無く、人生は満ち足りておりますか??
何らかのアクションをいただけると、一人で記事を書いてるわけではないのだと感じられ、嬉しくて小躍りしちゃいます。