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2011年8月4日13時06分

倒れてから2日後、松田直樹は亡くなった。

覚悟を決める時間があったからか、意外と落ち着いて訃報に接することができたと思う。ビハインドでATに入って、逆転を信じつつもこのまま試合終了になる予感もある、そんな状態だった。そして、そのまま笛が鳴った。正直なところ、自分のことについてはあまり記憶が無い。思い出されるのは、テレビの向こう側で受け答えしている中村俊輔。インタビュー慣れしているはずの彼が、言葉に詰まりながら「まるで眠っているようだった、今にも起き出しそうだった」と語っている。それと、憔悴しきった様子の当時のキャプテン須藤右介。ただのサポーターである自分ですら何も手に付かなかったのだ。チームメイトの心情はいかばかりであっただろう。

だが、誰にも平等に時間は流れる。3日後の日曜にはSAGAWA SHIGAとの試合があった。

アマチュア最高峰のリーグでもあるJFLで、Honda FCと並び最強のアマチュアクラブとして君臨していたのがSAGAWA SHIGA FCである。1000人収容のきれいな芝のスタジアムを自前で持ち、Jリーグ昇格要件のリーグ4位以内を安定して占めることから「Jへの門番」とあだ名されていた。村山智彦を始め、奈良輪雄太、清原翔平、鳥養祐矢といった後にJの舞台で活躍する選手も所属し、対戦相手としては最悪と言える。

試合開始前の空は異様だった。暮れ始めた青い空と白い雲、それと夕焼けとは違う紫がかった赤。縦に3つ、色が分かれていた。トリコロールカラーというには不気味な色合い。じきに雷雨となった。雷となれば試合はできない。行き場のない感情を抱えて、土砂降りの雨の中で待つこと1時間半。試合決行の判断が下された。

気持ちでどうにかなる段階はとうに通り越していた。退場者を出した方が得点力が上がるのではないか、と噂されるほど当時の山雅は無頼のサッカーをしていて、カードの出ない試合はほとんど無かった。空回った須藤が前半で退場。後半は多々良も退場。スコアこそ1-2だが、内容は完敗といっていい。試合後、村山が吼えていた。負けて言われる言葉を思えば、SAGAWA SHIGAこそ絶対に落とせない試合だったのだろう。思い知らされたのは、映画のような奇跡は起こらないことと、ピッチで戦えるのはピッチに立つ選手だけという当たり前の現実だった。


試合後、自然発生的に松田直樹のチャントが歌われた。私も参加した。

松田直樹 マツモトの松田直樹 俺たちと この街と どこまでも

それは、ついに松本の松田直樹になりきらないまま逝った彼に対する追悼と哀惜と、そして自己満足のメロディーだった。

太鼓は最後まで鳴らなかった。

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