宇宙戦艦ヤマト2199を見て考える、パラダイムシフト

こんにちは、ライアンです。

きっとアニメに興味がある人、ない人を問わずに「宇宙戦艦ヤマト」の名前を一度は聞いたことがあるのではないでしょうか。
僕自身も、視聴するよりもはるか以前からアニメ好きの叔父の影響で名前は聞いていましたが見る機会がなく、アニメを見るようになってからも未視聴でした。

先日ふと、いつものごとくamazon primeのサイトを見ているときに
「ヤマトって見れるのかな」と思い調べたところ、prime対象作品であることに気が付きました。

西暦2199年。外宇宙から襲来した謎の星間国家ガミラスによって、人類は滅亡の渕に立たされていた。その中で人類最後の希望を託すべく「ヤマト計画」が進められていた。その人類最後の希望を託すべき艦の名は「ヤマト」。しかし、人類に残された猶予は1年しかない。ヤマトは果たして人類を救うことができるのか…。(C)2012 宇宙戦艦ヤマト2199 製作委員会
Amazon primeより引用

ガミラスと呼ばれる異星人による攻撃で地球はボロボロになっていて、それを解決できる手段を持つ種族が住むという惑星イスカンダルを目指して、宇宙戦艦ヤマトが16万光年の果て大マゼラン星雲を目指すシナリオです。

ところで、16万光年ってどれくらいの距離だと思いますか?

光の速さで進んでも16万年かかる距離。キロメートルにすると
1.5×10^18(10の18乗)キロメートル。

要するに今の地球技術では考えられないくらいに遠い距離にある星なんです。

作中、とにかくヤマトが宇宙船ではなく、船であることを強調するようなワードが何度も出てくることを感じました。
惑星に着陸する=上陸
宇宙空間のことを、海と呼ぶ。
「物資補給のために、あの惑星に上陸してみよう」などという感じです。

始めのころはその表現にすごく違和感がありました。
「いやいや、いくらなんでも惑星相手に上陸はおかしいだろう」と。
(宇宙空間の航海と地球の海の航海を同列にするのはおかしいだろう、という感覚です)

でも、見ているうちにこれってある意味で地球の歴史上の大航海時代と似ているなと思うようになり、違和感も消えました。

今でこそ1人で1台以上持つようになったスマートフォンからgoogle mapにアクセスするだけで地球上すべての地形などを知ることができる世界になっていますが、ほんの数百年くらい前までは正確な地図なんてないし、地球に未踏の部分が多く残されていたわけです。

僕が活きたいと思っている南極についても存在を確認されだしたのは、19世紀ごろですし。アメリカ大陸もコロンブスが発見(現在のグローバルスタンダードの元であるヨーロッパ視点)してから500年くらいしか経ってないのです。

さらに言えば、もっと前の時代はおそらくどこの地域も「自分たちがいる土地のみが世界の全て。自分たちが世界の中心である」という認識をもっていたはずです。

そこから技術が進むごとに、人間は活動範囲を広げ続け、大陸を発見し、航路を開き、飛行機を開発してその移動時間を一気に縮めてきたのです。
 そして今では、地球上の異なる大陸であれど1日もあれば飛行機で移動ができるようになっている。
 つい数百年前は命がけで何カ月も船に乗らなかったところであるのに。

言うなれば人類の歴史は活動範囲の拡大と移動時間短縮の歴史ともいえるはずです。

それらから考えると、ヤマトが地球という自分たちの大陸から漕ぎ出して、宇宙という次なる海を進み、別の大陸(別の恒星系にある惑星)に進むうえで航海に用いる単語を使うのは当たり前なのかなと感じるようになりました。

きっとヤマト世界の彼らは、活動範囲を広げた後はその移動時間の短縮に乗り出したりすることでしょう。
そして、そのさらに先にはこの宇宙すら一つの大陸とみなして、次なる宇宙、新大陸を目指していくのかもしれない。
もしかしたら、彼らの世界が別宇宙のコロンブスに発見される側かもしれない。


この現実世界に生き、科学に生きたいと志す者の一人としてそうした活動範囲の拡大と移動時間の短縮に関われることを祈るのみ。
そして、異文明との接触が双方にとって実りあるものであることを祈念します。

きっと、どちらもコロンブスの側にも、発見されるインディアンの立場に立ってはならない。双方が同時に、真っ暗な宇宙の中で同胞を見出す感動を共有できることがベストなのでしょう。

頂いたサポートは、南極の植物を研究するために進学する大学院の学費や生活費に使わせていただきます。